真我のやわらかさ、とらわれのなさ

ここでは、「真我のやわらかさ、とらわれのなさ」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられているS.Kさんから頂いたメールと無空の返信を
参考までにご紹介させていただきます。

メールありがとうございます。
ご質問へのお応えは、基本的に、セッションでということにさせて頂いておりますが、
参考までに少し書かせていただきます。

> 私には、現在意識、潜在意識、超潜在意識、と言う観念があって
> 心に深く入っていって、現在意識、潜在意識、超潜在意識の先に
> 真我が存在している これは間違いでしょうか?

それもひとつの視点であり、その視点からの真実であるとも言えます。
真我(在る)は無限であり、
それには無限の在り方、無限の視点、無限の理解があり、
それぞれの在り方、立ち位置、視点、見方
(どのように見るか、どのように見えるか)、
理解の度合い、深さ、広さ、大きさ、精妙さ、角度等により、
それぞれの認識、それぞれの感じられ方、
それぞれに体験され、それぞれに理解される真実があります。

また、真我は、その実在、当たり前に在るという事実において、
存在を存在させている絶対的に確かで堅固(愛)なものでありながら、
同時に、無限に柔軟(愛)でもあります。

それには、様々な視点、立ち位置、理解等に、いかようにでも応え、
応じるやわらかさ(やさしさ、愛)があります。

それは、特定不能、定義不可能、
真我は、マインド(観念も含む)でとらえきれるほど小さなものではありません。
それは、とてもとても大きいのです。

それは、すべてであり、すべてとして現れながら、
同時に、無限の可能性そのものとしての非顕現の在り方を失いません。

それは、知そのもの、知っているそのものとして既知でありながら、
同時に、未知そのものとしてのその地位、そのスペース、その余裕、
その神秘性、その奥深さ、その奥ゆかしさ等を常に有しています。

すべてはそれであり、どの視点(入口)からでも、それを理解していくことは可能です。

現在意識、潜在意識、超潜在意識、その先に真我が存在している、
源から現れまで、
最も精妙な領域を超えた領域、そして、最も精妙な領域から最も粗雑な領域まで、
あるいは、最も具体的、最も具象的な領域まで、
そのような視点からは、真我は、超潜在意識の先にあるということができるかもしれません。
それは、ひとつの言い方をすれば、本質、現れの源としての真我、ということができます。

また、すべては、それ(真我)である、それだけが在る、という視点からは、
現在意識、潜在意識、超潜在意識も、真我の現れであり、真我そのものでもある、ということができます。

本質としての真我を(深く、そしてトータルに)知ることにより、
それを現れの中にも、あるいは、現れそのままを、
真我として見、真我として認識することができるようになっていきます。

最も粗い層から最も精妙な層までを辿り、そこを超えていったところは、
それら連続するの層の一領域に属するようなものではなく、
すべての層そのものでもあり、同時に、それらすべてを含み超えた全く別次元のものであるという言い方もできます。

それは、最も粗い層であり、最も精妙な層であり、その中間の層でもあり、
その全体でもあり、さらには、それ自身を超えているもの
(それであり、同時にそれ自身を超えているもの、それ自身から自由であるもの、
常にそれ自身を超えていくもの)であります。

どの視点(入口)から入っていっても結構です。
それぞれの方が入りやすいところから入っていけばよいでしょう。

それぞれの方のタイプ、プロセス等により、ひとつの視点に限定し、それが唯一の道、
唯一の真実として進んで行くのがよいケースもあるでしょう。

また、はじめからひとつの視点、真実だけに限定せずに、
やわらかく、大きく、ただそのときどきで入りやすいところ、進みやすいところから
進んで行くのもよいでしょう。

(まったく見当がつかないような場合は、まずはひとつの視点を基準に
進んで行く方がよいかもしれません。
ただ、真我を限定しすぎてしまったため、それ以上進めないケース、
それ以上開かれないケース、あるいは、マインドでの決め込み、思い込みにより、
なかなか本質に開かれないケース等もあるかもしれません。)

無空庵としては、基本的には、まず現れがすべてであり、本質を知らないという状態から、
本質を知って頂く方へサポートさせていただきます。

(今現在行われている思いやイメージを見るというのは、現れについてによく知り、
また、現れとの距離をつくることにより、思いやイメージを見ている主体、意識、本質の方を
自覚、認識することの助けになります。)

本質とは、変わらないものであり、すべての現れの源であり、不動の視点、真の土台となるものであり、
そこ、それを基点として、真我は、現れを含み、また、未知、無限の潜在性、無限の可能性、
そして、無限の顕在性そのものでもある真我全体、全体である真我を理解してくことが可能になります。

無空

補足:真我は、身体、マインド等すべてが完全に浄化、純化されなければ、認識できないものではありません。
(認識の度合いや深さ、広さ等は、浄化、成熟、変容等が進めば進むほど、深く、広く、そして、よりクリアになっていきます。)
真我の自覚、認識を繰り返しながら(あるいは、まずは、真我の方に意識を向けること、あるいは、そのための準備の実践をしながら)、
浄化は進んで行き、存在全体がクリアになっていきます。

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