無限の自己理解

ここでは、「無限の自己理解」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられているH.KIさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

H.KIさま

感想ありがとうございました。

> > 無空さま
> >
> > セッションありがとうございました
> >
> > 職場という戦場にいる、マインドの成熟のためという考え方をしています
> >
> > というお話しをしました
> >
> > 井上老子の100%完璧、無空さんがよく言われる「そのもの」そのお話しの流れから
> >
> > 無空さんから
> >
> > 『その状況、その現象の中でその時、現象反応としてはパーフェクト
> >
> > それを問題にするのは現れている個人、巻き込まれる、思考に巻き込まれる、
> >
> > マインドに巻き込まれると言いますけど、自己理解が深まって、在るだけが在るという理解
> >
> > 本当に深くなれば現象を、それまでマインドに巻き込まれたという現象そのものは変わらなくても
> >
> > 巻き込まれた者がいなくなるので、その時の視点からいくと、どうなると思いますか
> >
> > それまでは巻き込まれたという現象が、思考そのものになるわけです
> >
> > 在る、その思考も何もない状態から、思考になって、それが終わったら在るというか
> >
> > ただそれだけなわけです
> >
> > 怒りであったり、感情であったり、ただその在り方が、形が変わっていくだけで、
> >
> > 巻き込まれなくなったじゃなくて、
> >
> > 大きな傾向では、それまでこういう場合には、こういう反応が起こったりとか
> >
> > それが起きなくなったりとか、より穏やかになるというのもありますけども

> > 全くそれが起こらないとか、そういうことではないですね
> >
> > そういう変容ではないですね
> >
> > 思考が起こってたことに囚われないというか、
> >
> > 今そうだったと気づいてる思考そのものだった在る』

(無空補足:在るの理解が深まり、思考そのものとなっているというくらいのときには、

━自己理解が深まり、真に在るがままで在れるようになったとき、

自己をただそのままでいさせることができるようになったとき、

自己理解、全体の理解、世界の理解が深まり、完全な安全、絶対大丈夫等を存在全体で確認でき、

自己に真の自由で完全な自発性の発露を許すことができるようになったときには━

起こってくる思考、あるいは、それ自身がそのものとなる思考も、変容したもの、

あるいは、クリーン、無害なものになっているでしょう。

さらには、全体にとって有益なものとなっている場合も多いかもしれません。

また、まだ巻き込まれていると感じられている場合でも、

起こっている思考がクリーンではないと感じられた場合に、

ただそれがあることをニュートラル(愛)な視点で見ることができれば、それは全く安全で、無害です。

あるいは、無害なものに変容させることができます。

さらには、そこから気づきや、マインドについての理解、全体的な統合等へと進んでいくこともできるでしょう。)
> >
> > 無空さんのお話しを聞きながら、とてもワクワクしていました
> >
> > 同時にその反応にもちょっと驚いていて
> >
> > 「すごく楽しみ」という言葉が何度か起こりました
> >
> > 本当の自分を知りたいという欲求が強く起こりました

本質的なところに響いたようですね。

上記の話し言葉をそのまま書かれた表現だと、

直接セッションを受けられていない方々には分かりにくいかもしれませんが、

ただひとつであるもの、

ただひとつであるすべて、

在る(愛、真の自己)だけが在る、

源も在るであり、その現れ(現象)すべても在るである。

その本質的な真の理解の中で起こることは、

思考に巻き込まれる者はいず、

様々な自然現象が起こるのと同じように、ただ思考という自然現象が起こっただけ、

在るがそのように現れただけ、

在るがそう成っただけ(鳴っただけ、響いただけ、ゆらいだだけ)、


(静かな海と波だった海、どちらも海です。

海を波立たせる力、静める力は、それ自身の自然本性によります。

それは、在ること、それ自身であること、自分自身であることで、ただ起こります。

在るは、自然、自ら然りです。それはそれ自身に起こるすべてを受容するとても主体的な在り方でもあります。)


その在り方の形、形象は変わりますが、 在る、存在しているという本質、事実は変わりません。

本質、事実、真実を深く知るもの(個人ではなく、在るそのもの、気づきそのもの、あるいは、理解そのもの)は、

その形、現れ方に惑わされません。

知っていること、深い理解、それは在り方、立ち位置、意識の落ち着き所を変え、

そしてそれが、起こっていることの姿形、形象は全くそのままで、

その体験全体をある意味全く別なものに変容させます。

(思考が起こること等の体験に関しては、

それと距離を置き体験されることもあれば━思考が起こってくる、思考が起こっていることの体験━、

ただそのものとして、それ自体に気づかれたまま体験されることもあります。━ある意味、成ることの体験、起こっているものそのものとしての体験━

在り方、体験のされ方は様々であり、それはそのときどきの現れた個の状況と全体の状況等を含んだ、

全体的な自然さによります。)


思考も在る、至高の在るです。

起こってくる思考も、真に在るだと知っているか、深くそうだと知っているか、


(そのような理解のもとでは、状況、環境等にもよりますが

全体的な傾向としては、それまでの在り方では必要であり、また、自然だった思考パターンなどが落ちたり、変容していき、

起こってくる思考はより少なくなってくる傾向はあると言えます。)


そのように見ることが自然で、意識せずとも当たり前になっているか、

ただそうなっているか、

それそのものとなっているか、


思考が去った後、

あるいは、それがただ消えた後(形を持たなくなった後)、

今巻き込まれてしまった、と思うものがいるか、

ただ在るだけが在るか、

その違いです。


(ただ在るだけが在ることの気づき、認識、自覚、

そこから、それ自身に起こった確認、理解の自然な現れとして、マインドの形をとってそれが現れてくることはあります。

それ自身に直知が起これば、それは波の波紋のように、存在全体に広がっていきます。

━現れた個の存在全体だけでなく、宇宙全体に広がっていきます。それが宇宙全体を養っていきます。━

存在自体の理解、直知、直覚が、マインドの形を取るのも、直知の自然な波紋、波のようなもの、

とても自然なものです。

━もちろん、マインドの形をとらない場合もあります。━

その他、直知の波紋としてのマインドの現れではなく、在るを核とした成熟したマインドによる確認等と表現した方が適切な場合などもあります。

それは、無限の自己理解の自然さの中で、そのときの自然な自己認識が、自己をより純粋な本質として認識しているのか、

マインド等の現れも含めたよりトータルな自己として認識しているのか、

そのときの無限に包含された自己理解の中の、どの視点、立ち位置、理解、認識が現れてきているのか、

起こってきているのか、によります。)


現れた環境、関係性の中では、自然に思考、また、個人(すべてはひとつであるという理解をベース、あるいは、背景にした上での、

あるいは、その理解に貫かれた上での、名前を呼ばれたら応えられる主体、自他を区別できる主体、個的自己感覚、

体験、記憶等をもとにした理解、それも含めた自己認識)も起こってきますが、

その必要が去れば、残るのは現れの源、本質(本質としての在る)、全体だけです。

あるいは、ただニュートラルな状態(満ちたニュートラル、完全に寛いで在りながら、常に準備万端のニュートラル)、在り方に戻るだけです。

全ての現象は、そこで、あるいは、それ自身の中で起こっています。

ですから、本質的には何も起こっていないとも言え(ただ姿形、感じ方、認識等が変わるだけ)、

同時に、本質の中で起こることのすべてが、本質に実感、実体験、認識、理解を与え、

本質をさらに養い、本質をより深め、より高めていっている、より豊かにしていっていると言うこともできます。


> >
> > 感想です
> >
> > 最初の共鳴
> >
> > 静かな喜び  どっしりとしたものを感じました
> >
> > アイコンタクト
> >
> > ハートへの直撃
> >
> > 瞑想
> >
> > 道が決まったかの安定感がありました
> >
> > ハート
> >
> > 「真」
> >
> > 立場を変えて
> >
> > 普通な感じ
> >
> > 立場なし
> >
> > 落着き

全体的にとてもよい感じでしたね。
> >
> > 次回も宜しくお願い致します
> >
> > H.KI

こちらこそよろしくお願い致します。

無空
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する