日常のすべてが悟りに直結している(そのものではないか)というように感じ始めています

ここでは、「日常のすべてが悟りに直結している(そのものではないか)というように感じ始めています」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられているH.KIさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

H.KIさま

感想ありがとうございました。

> > 無空さま
> >
> >
> >
> > セッションありがとうございました
> >
> > セッション当日の職場での出来事がそのまま共鳴で現れた感じでした
> >
> >
> > 感想です
> >
> > 最初の共鳴
> >
> > 胸のあたりにある塊がくっきりとでた感じ
> >
> > アイコンタクト
> >
> > その塊が柔らかいもので包まれた感じ
> >
> > 瞑想
> >
> > 塊の質が変わって溶けていきました
> >
> > ハート
> >
> > 普通な感じ  初めから何もなかった感じでした
> >
> > 立場を変えて
> >
> > とても静かな喜びを感じました
> >
> > 立場なし
> >
> > 喜び  感謝

全体的に自然で必要な流れの中での共鳴でしたね。

後半は本質的なところが開かれてきましたね。
> >
> >
> >
> >
> >
> > ゴタゴタの職場での関係性の中で、
> >
> > このところ、心境の変化というのか思うところがあって
> >
> >
> >
> >
> > この一週間は、上司に伝えるということで、伝え方について一生懸命考えるという事が
> >
> > 起こっていました
> >
> > 「相手に気持ちを伝える」関係のネット検索をしたりしていたのですが
> >
> > 途中でふと、存在の力(在る力)ということはどういうことなのかという思いが起こりました
> >
> > 無空さんがよくおっしゃる全てはどう在るか・・・というところだと認識しております

はい。
> >
> >
> >
> > 悟りという言葉を知ってから、
> >
> > いつの間にか人生の中で起こる日常の雑ごとすべてが重要ではないと思うようになっていました
> >
> > 真理を知ることのみが一番大切なことだと信じて、迷いなく悟りへ向かって一直線でした

それが自然に起こっていた、ということでもあると思います。

そのときの存在全体においては、そこ(真理を知ること)により焦点が当てられる必要があった、ということでもあると思います。
> >
> > 実は日常のすべてが悟りに直結している(そのものではないか)というように感じ始めています

はい、よりトータルで、より自然で、より統合された視点になってこられていますね。

自己理解とは、真の自己の理解であり、狭義には、それは本質(変わらない本質)、源のことと言えますが、

よりトータルには、あるいは、真には、自己とはすべて、すべてのすべて、

源と現れ(源と現れと識別した場合の源と現れ)を合わせた全体そのものです。


(源と現れは別物ではなく、そこにあるのは、ただひとつであるものの在り方、在り様の違いだけ、

あるいは、見方の違いだけです。

色即是空、空即是色。

別の視点から一つの言い方をすれば、真の源、真の本質とは、現れも含んだ源、現れも含んだ本質、二元性も含んだ一元性等言えます。

源と現れを、その様相上、そして、性質上識別してみる視点と、

真の視点、真の理解の視点から、源と現れの両者を貫き、まったく同じものと見る視点、

識別の視点、理解も持ちながらも、自然にただそれだけがそのまま見える視点、

あるいは、ただもともとそうである、はじめからそうである、ただそうである、ただそれだけが在る、

という視点があります。

そして、両方の視点を持ち、その深い理解、トータルな理解があっても、

そのときどきでどの視点がより強く出てくるか、

どの視点がより優勢になるかは、そのときの状況、環境等により自然に変わってきます。

それがただひとつであるものの自然です。)


ラマナ・マハルシの言葉等も参考にご紹介しながら、何度か書かせて頂き、お話しさせて頂いているところですが、

まずは変わらない本質の方に注意に向け、それを知り、そして、何度も何度もそれに意識を向ける、その立ち位置にあること、

それそのものであることを繰り返すことにより、現れ、マインド、身体、細胞レベル等も含んだ存在全体に、

その本質、よりトータルに開かれた本質が徐々に浸透していきます。

(別の言い方をすれば、統合が進んでいくと言ってもいいでしょう。)

変わらない本質である現れの源の方に注意を向ける、

(H.KIさんのケースでは、それまで注意が向いていた現れとしての日常的なことよりも悟りの方に注意が向けられるようになる)、

何度もそれを繰り返すことにより、源の質、よりトータルに開かれたその質が、現れたそれ、日常として現れているそれに浸透していく、


日常そのものがそれであるという理解、

日常そのものがそれであるという実現、


以前と全く変わっていないが、すべてが変わってしまった、


(表面的で限定的で一面的になってしまいますが、分かりやすく言えば、姿形、表面的なところは何も変わっていないが、

その見え方、感じ方はまったく変わってしまった、全体がまるっきり別ものになってしまった、

でも、本当は何一つ変わっていない、本当に普通、本当に自然、ただ日常、素晴らしい日常。

自然、普通、真の日常の実現、在るの実現、愛の実現、真の自己の実現です。)


悟りとは、自分を知ること、

本当の自分を知ること、

本当の自分とは、すべてのすべて(現れも含めたすべてのすべて)。


(「本当」という意味を「変わらない」というところから見ていけば、それは変わらない本質としての自分、現れの源としての自己、在るとなります。

どのような視点から表現するかは、そのときどきによります。)


真の自己とは、すべてのすべて。

それは、その本質は変わらないまま日常(日常のすべて、日常そのもの)として現れています。

日常そのものが自己です。

そこには、本質、源、そしてその現れ、そのすべてがそのまま在ります。

それぞれが別々のものとしてではなく、ただひとつであるものとして在ります。

そのままのそれがそれです。

そのままの日常、

日常のそのままがそれです。

寸分のくるいなく、一ミリのずれなくそのままそれです。

ですから、今回書かれてある

「実は日常のすべてが悟りに直結している(そのものではないか)というように感じ始めています」

というのは、まさにそのとおりです。

悟り、そしてそれを生きる、それ(悟り)が生きられる。

自己を知り、そしてそれを生きる、それ(自己)が実現される。



真の自己の理解、悟りとは、自己として在り、また自己として現れている日常を知ること、

真に知ること、日常を悟ること、

変わらずに在るものとそこから起こる変わり続けるものを知ること、

それがただひとつであるものであるということを真に知ること、

それの無限の素晴らしさを知ること、

自己を知ること。


そして、真の自己の実現とは、その理解が存在全体として、日常の中で、日常そのものとして真に生きられることと言えるでしょう。

それは、そこ(日常)で生きられるものであり、同時にそれそのもの(日常そのもの)でもあります。

ただひとつであるものは、そのようにしてそれ自身を実現しています。


(今回、H.KIさんから頂いた感想━日常のすべてが悟りそのものであるということ━に対しては、

あるいは、H.KIさんから頂いた文章に応じたひとつの形としては、このような感じになります。)

> >
> >
> >
> >
> > また一つの疑問としては、共鳴で在るの微細で精妙な質を感じとれたとして
> >
> > 必ずしもマインドの成熟と比例しているのかどうかという事です
> >
> > 無空さんから以前、「現れだけではわからない」とお答えいただいていますが
> >
> > なんともわからない腑に落ちないところです

その他にもお応えもしたと思います。

今のH.KIさんへのお応えとして、端的には言えば、「一概には言えない」ということになります。

全体的な傾向としては、よりクリアになってくれば、より精妙な質も感じ取れるようになってきて、

そのような質の浸透がマインドの成熟も促していく、

また、様々な経験を通し、マインドの成熟が進んでいる方は、様々な質も感じ取りやすいと言うことができるかもしれませんが、

そこは無限の多様性、

現れた存在においては、それぞれの気質、タイプ、能力等様々ですし、また、マインドの状態、質等も様々です。

もともと精妙な質を感じ取りやすい方、その能力にすぐれた方もいるかもしれません。

そのような方が、その精妙な質を感じ取ることを続けることによって、よりマインドを含め、存在全体の成熟が進んでいくということがあるでしょう、

また逆に、そのすぐれた能力ゆえに、マインドが強くなってしまう可能性もあるでしょう。

また、マインドが強くならずとも、その変容にはそれなりの時間がかかる、そのかかる時間もまたそれぞれである、ということも覚えておきましょう。

マインドの根っこ、潜在的な傾向、あるいは、ヴァーサナとも言われるものはとても強力であるとも言えます。

ですから、先日の返信でご紹介させて頂いたようなニサルガダッタ・マハラジの言葉等があります。


ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」から。

*************

質問者
ラーマクリシュナ・パラマハンサの妻であるサーラダー・デーヴィは、彼の弟子たちの行き過ぎの
努力をよく叱ったそうです。
彼女は、彼らを熟する前に摘み取られたマンゴーに比較して、「どうして急ぐの?あなたが完全に熟し、
甘く、芳醇になるまで待ちなさい」と彼女はよく言ったそうです。

マハラジ
何と彼女は正しいことか!
多くの者たちが、完全な真我実現前のつかの間の体験で夜明けを昼と間違え、過剰な自尊心から
彼の得たわずかばかりでさえも台無しにしているのだ。
謙遜と沈黙は、どんなに進歩していてもサーダカ(真我の探求者)にとって本質的なものだ。
完全に成熟したジニャーニ(賢者)だけが、己に完全な自発性の発揮を許すことができるのだ。

質問者
あるヨーガのアーシュラムでは弟子が光明を得た後、沈黙を七年、十二年、あるいは、十五年、
または二十五年にわたってまでも守っていくといいます。
バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシでさえも教えはじめる前に、彼自身二十年もの沈黙を守ったのです。

マハラジ
そうだ。内なる果実は熟さなければならない。
それまでは戒律を守り、気づきのなかに生きることが必須となる。
徐々に修練はより微妙になっていき、最後にはまったく形のないものとなる。

*************
> >
> > 無空庵でいう“とらわれない度”が“雑な感じ”と区別がつかないところがあって
> >
> > これもまたよくわからないところです

さらに理解が進めば自ずと分かるようになってくるでしょう。

それは全く違います。

ただ、とらわれなくなってきた存在からでも、状況によっては雑な感じが起こってくることもあるでしょう。

そこをいつも偏って考えがちですので、そこにもただ気づいて在りましょう。

> >
> >
> > 識別が明確に自覚されながら、それが自然に起こることをゆるせている感じなのでしょうか
> > いったいどうだったらいいのか?という疑問が起こる事態
> >
> > 未成熟であると自覚してはいるのですが、どうしても右か左かに寄ってしまう傾向があるのと、
> >
> > と書きながら、ふと・・自分にとってより自然であるかどうかなのかなと・・自ずとわかる

いいですね。
> >
> > だんだんとつぶやきになってしまいますので終わります

職場でのことを通して、かなりクリアに見られ、理解が進んでいますね。


> >
> >
> >
> > 次回も宜しくお願い致します
> > H.KI

こちらこそよろしくお願い致します。

無空
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