悟りを開く|無空庵

ここでは、「悟りを開く|無空庵」 に関する記事を紹介しています。

悟りを開くとは、本当の自分に開かれること


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

悟りを開くとは、一般的に、心の迷いが解けて、真理を会得すること、

開悟すること等言われています。

覚者方、すでにそれ(真理、真実、真我、実在、実相)に開かれている方々の

表現の中には、

誰もがもともとそうである(真我である)、

本質においては、誰もが例外なくすでにそうである、というものがあり、

それも確かなひとつの真実ですが、

「悟りを開く」という視点から見ていくと、

それ(真我)がそれ自身に気づき、それ自身に開かれること、

真我が直接にそれ自身を知ること、自己理解、自己認識、自覚、

あるいは、それは、すでにそうであるものの再認識という言い方も

できるかもしれません。

悟りを開くとは、それまで気づかれていなかった本当の自分、

真の自己、真我に気づくこと。

自分自身、真の自己に目覚めること、覚醒すること。

本当の自分に開かれること。

本当の自分を認識すること、自覚すること。

と言えます。

悟りが開かれていくプロセス等も様々


悟りを開く深さ、気づきの深さ、トータルさ等はそれぞれであり、

また、それがどれだけ、そして、どのようにマインドを含めた存在全体を

変容、成熟等させていくかも、それぞれのプロセスがあります。

人によっては、いわゆる悟りの一瞥、悟り体験が一度でも起これば、

悟りを開いたと言う方もいるかもしれません。

(一度の体験により、それまでのパターン等から自由になり、

存在全体が大きく変容し、まさにそれが会得される、それそのものとなる、

ということも考えられますが、多くの場合は、そこからさらなる真摯な実践等を

継続していくことにより、徐々に存在全体の変容が進んでいきます。)

また、冒頭に書かせて頂いたように、「会得された」という段階になってはじめて、

悟りを開いたとする方々もいるかもしれません。

現れの世界を通して、悟りを開く、悟りが開かれる


本質はもともとそうであり、すでにそうであっても、

それが自覚され、理解され、実感され、

それ自身の意識の中に開かれなければ、

ある意味、それは無きに等しい

と言うこともできます。

真我自体は、生死を超え、この現れの世界を超えている、

あるいは、それらを含み、そして超えていると言えますが、

それが実現され、生きられるのは、この現れの世界を通して

と言うことができます。

気づいていなかったものに気づかれる、

開かれていなかった真実、真我の認識、自覚、理解に開かれる、

それを

悟りを開く

悟りが開かれる

そのように言うことができると思います。

それ(真我)自身に悟りが開かれる


そしてまたそれは、その本質においては、個人に開かれるのではなく、

それ(真我)自身に開かれる、と言えます。

(悟りを開くとは、別の視点からは、個人、マインドを超えることとも言えますので。

もし、個人的な「私」が悟りを開いたと言っているようなケースがあれば、

それは、真には、悟りを開いたとは言えません。

もちろん、悟りを開くという言葉自体が、

真実を指し示すためのひとつの道具であり、

方便であるという言い方もできますし、

また、自然な必要性、全体の必要性、状況等から、

私は悟りを開いた、とあえて表現するケースもあると思われます。)

悟りを開く、そしてそれがより深まっていく


そして、それが起こるのは、突然です。

様々な実践を重ね、また、様々な人生の経験を重ね、

その存在に準備ができたときにそれはトータルに開かれてきます。

また、状況、環境等により、それが一時的に垣間見られる、

ある意味、事故的に体験される、その一片が部分的に開かれる

ということもあります。

そのような場合も含め、実践を重ねながらトータルに開かれてきた場合でも、

多くの場合は、悟後の修行という言葉があるように、

それまでの習慣、マインドのパターン等から徐々に自由になっていくプロセスがあります。

悟りを開く、そしてそれがより深まっていく、

本当の自分とは何ものであるのか、どのようなものであるのか、

自己理解の深まり等のプロセスがあります。

そしてそれは、仏教の方で言われる悟りの階梯(ステップ)、禅の十牛図等もあり、

ひとつの完成というものがあると捉えることもできますが、

また別の視点からは、真我(本当の自分)の自己理解の深まりは、

無限であるということができます。

(参考:ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より

『探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。』

『実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。』)

それ(真我)自身は不変不動でありながら、同時に、

それ自身への気づき、認識、実感、理解の進展は止まることはありません。

それは不変不動のまま、広がり、深まり、高まり続けていきます。

真我は、それ自身の中で流れ、循環し、それ自身を常に超えていきながら、

絶えることのない自己更新を、無限に、永遠に続けていきます。

悟りを開く方法


悟りを開く、悟りが開かれるのは、ある特定の決まった方法でなければならない

ということはありません。

何かのきっかけでそれが自然に開かれることもあります。

それは、ある状況、環境下で突然起こるかもしれません。

様々な修行や瞑想を行った結果、起こるかもしれません。

何の前触れもなく、普段の日常の中で突然起こるかもしれません。

人生の中でのある大きな経験を通して、悟りを開くかもしません。

セミナーやセッションの継続の結果、それが起こるかもしれません。

探そうとしていると見つけられない、

求めているうちは悟りを開くのは難しいなどとも言われますが、

探していない人、求めていない人すべてが悟りを開いているか、

本当の自分、真の自己、真我に気づいているか、

その自覚、理解のもとに生きられているか、というと必ずしもそうではありません。

また、探すのをやめた途端、求めるのをやめた途端、

すべての人がすぐに悟りを開くことができるか、

というとやはりそうとは限りません。

前述の言葉(「探そうとしていると見つけられない」、「求めているうちは

悟りを開くのは難しい」)は、

本質をついているとは言えますが、やはりその言葉をマインド的に、

一面的、表面的に捉えただけでは、望むものは開かれません。

また、もし本質をある程度理解できたとしても、

マインド等が成熟するにはやはり時間がかかります。

世の中では、「悟りを開く方法」、「悟りを開くには」等、様々なことが語られ、

また、示されたり、サットサンやセミナーやセッション等も行われています。

対象に気づく |悟りを開く方法


悟りを開くための実践として、意識の自然な習慣に基づいた

それ(真我)自身から起こっている対象、現れに気づく、

自身の行動や呼吸、思考、感情に気づく等は、

よく書かれていたり、言われているように思います。

これにより、それまで無意識的に同一化していた

身体、行動、思考、感情等から(感覚的に)離れることが可能になってきます。

(気づいている意識である真我、気づいている主体から

きれいに自我が落ちた状態では━多くの場合、ミックスされています。━、

あるいは、自我、個人が起こっているものに溶け、それとひとつとなった状態では、

それ自身に気づいている行動・行為そのもの、呼吸そのもの、思考そのもの、

感情そのものという在り方になる場合もあります。)

現れからより自由になっていくということで、

このことを「悟りを開く」、と言う方もいるかもしれません。

そのような視点もあるかもしれません。

それは非常に素晴らしい状態であり、在り方ですが、

それだけでは、まだ、気づいている意識自体の自覚、認識、理解が起こっていません。

(もちろん、自我、個人、マインド、現れからより自由になっていく過程で、

気づいている意識自体に気づく、本当の自分、真我に気づく、

悟りを開く、ということが起こる可能性はあります。)

意識(真我)のそれまでの習慣、傾向は、

それ自身から起こり、それ自身と距離のある対象に気づくというものであり、

意識、あるいは、気づきがそれ自身である気づきに気づくというこは、

習慣として身についていません。

(何かのきっかけ、状況等により、気づきがそれ自身である気づきに気づく

というこが自然に起こることはあります。)

ですから、まずは、それ自身ではないけれども、それ自身から起こる

身近な対象である思考や感情に気づくということを行い、

それに慣れていきながら、徐々に気づきそれ自身にもより気づくやすくなっていく

というアプローチがあります。

もちろん、それ以外にも、悟りを開くために上記の方法を提唱されていらしゃる方々には、

深い視点、深い洞察があるものと思われます。

瞑想|悟りを開く方法 


また、瞑想等で、心を静かにしたりすることにより、思考等動いている対象ではなく、

その思考等に気づいている意識自体に気づきやすくなることもあります。

何を知るのか、

何を悟るのか、

何に開かれるのか、

何に目覚めるのか、

何に覚醒するのか、

それは、自分自身にです。

すべてに気づいている意識である真我、真の自己、本当の自分に気づくこと、

それ自身を自覚すること、

それ自身を認識すること、

それ自身の実感、認識、理解に開かれること、

悟りを開くとは、そのようなものであると無空庵ではお伝えさせて頂いております。

本来、真実は言葉を超えており、悟り、悟りを開く、目覚める、覚醒する等の言葉も、

方便、便宜上のものでしかないとも言え、

また、様々な定義、使い方、解釈もあり、また、誤解の多い言葉でもあるとも言えますが、

無空庵では、ひとつの在り方を指し示すものとして、必要に応じて、

「悟りを開く」等の言葉を使わせて頂いております。

ゼロ意識共鳴セッション |悟りを開く方法


さて、様々に悟りを開くための方法、悟りを開くためのアプローチが

提供されている現在ですが、

無空庵では、それ(真我)を深く知る意識からの直接伝授の方法として、

ゼロ意識共鳴セッションを行わせて頂いております。

共に在ることによる共鳴での直接伝授等に関する記述として、

参考までに、覚者方の言葉等をいくつか挙げさせて頂きたいと思います。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」より

【まずサットサンとは、実際には、非顕現である真理(サット)あるいは絶対的存在との交際を意味している。
だが、それができるものは非常にまれなため、弟子は二番目に効果的な顕現された真理、つまりグルとの交際を選ばなければならない。
想念は執拗に起こり続けるため、賢者との交際はどうしても必要となる。
賢者はすでに心を克服し、平和の内に在る。
彼の臨在の内にあることは、この平和の状態を他者にもたらす助けになる。
さもなければ彼との交際を求める理由はない。
グルは誰に見られることもなく、このために必要とされる力を弟子に与える。】

【沈黙のディークシャーは最も完全なものである。】

【グル(師・教師)が沈黙していれば、弟子の心は自動的に浄化される。】

【グルの眼差しには浄化作用がある。
その浄化作用を目で見ることはできない。
石炭を発火させるには長い時間が必要であり、木炭であれば短い時間ですむ。
火薬であれば発火は瞬時に起こるだろう。
マハートマのもとを訪れる人の段階もそれと同じである。
智慧の炎はすべての活動を燃やし尽くす。
賢者の交際(サットサン)、あるいは彼らとの精神的接触によって、智慧は培われるのである。 】

ラマナ・マハルシ「不滅の意識」より

【賢者たちと親密に生活し、共鳴して接触している人々は、彼らから徐々にサマーディ(真我への吸収)の習慣を吸収します。】

「パワーか、フォースか」より

【エネルギーフィールドが550か、それ以上で測定される指導者がそばにいることで、まだ悟りを開くに達していない弟子たちが崇高さを体験することはよくあります。
これは、パワフルなアトラクターフィールドが優先することによって起きる「同調化」のプロセスを通して現れます。】

【精神の修行をする人たちは、師のエネルギーに自分を合わせることです。そして、レベルの高い師にただ焦点を合わせるだけで、自分の進歩を促すことができます。】

フーマン「恩寵の扉が開くまで」より

【プレゼンスやビーイングやハートの境地は、だんだんとマインドを変容させるし、教師の臨在もマインドを変容させる。】

【古い時代の究極の教えは、唯一沈黙を通してのみだった。
マスター臨在の下で、直接に真実が伝達される。 】

フーマン「恩寵の扉が開くまでⅡ」より

【私たちが一緒に坐ると、これがあなたの中で活性化する。
そうしてそれに対して開く事で、奥義が伝授される。 】

【伝統的な弟子とマスターの関係では、アシュラムがあり、弟子は長年マスターの下に止まった。
そうすることで、そのエネルギーの下で成長が起こった。
今、私がアシュラムを持つ必要はないが、私はあなたをガイドする。
そして「これ」をあなたの中で開き成長させていく。 】

このように、共鳴伝授というものは、悟りを開くためのひとつの方法として、

古来からサットサン等により行われてきたものですが、

無空庵では、それを1対1で、相手の方に合わせ、

もっとも凝縮した形で行わせて頂いております。

これまでの習慣、本当の自分を知らず、気づいている意識の自覚がない状態で、

マインドのパターンに無意識に巻き込まれ、

また、それと同一化していた習慣を変え、

真我の自覚、自己認識、自己理解に開かれ、

そしてそれがより定着し、より確かなものとなっていくよう、

言い換えれば、悟りを開くため、そして、その開かれた悟りをより確かなものにし、

より深めていくため、週1回の定期的な継続セッションという形で

行わせて頂いております。

そこでは、初めに、それを深く知る意識との共鳴場の中で、

「意識(真我)」、「在る(実在)」について、お話ししながら、

確認、お伝えしていきます。

はじめてのセッションでお分かりになる方もあれば、

徐々に分かってくる場合もありますが、それは大きな違いではありません。

日常での実践。自覚、再確認、再認識。自分自身、在る、気

づいている意識に気づくことを繰り返す。|悟りを開く方法


そして、日常では、起こっている思考、感情等の方ではなく、

それに気づいている意識自体に気づくこと、

あるいは、真我のもうひとつの側面、在るという存在感覚、

あるいは、シンプルにその事実に注意を向けること、

あるいは、それそのものとして在ること(真の自分自身であること)

を実践して頂いております。

それは、悟りを開く、そして、その開かれた悟り、開かれた理解を、

無限に深めていくための最も直接的で、最も自然で、最もシンプルで、

かつ最もトータルな方法であると言えます。

そしてそのことにより、より自由に、より軽やかに、より平和に、

より幸せになっていきます。

喜びが増し、愛に満ち、本当の自分が実現されていきます。

なぜなら、真我、本当の自分とは、自由そのもの、平和そのもの、幸せそのもの、

喜びそのもの、無限の愛だからです。

悟りを開く、そして、その開かれた悟りをより深めていく、

真我、本当の自分をより深く知っていくことにより、それらは無限に増していきます。


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最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。


K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。

O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。


H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。
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