無空庵のセッション

ここでは、「無空庵のセッション」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられている方から頂いたメールへの返信の一部を参考までにご紹介させていただきます。

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古来から、本質を伝えるのは、沈黙の伝授によってなされてきました。

(それが言葉によってでも、他の方法によってでも、その言葉や方法を超えたところが伝えられ、そして、受け取られる必要があります。
また、伝授というのも、視点を変えれば、受け取ろう、知りたい、実現したいという存在が、
それが自身の中に在ること━在り方の可能性として実在していること━、それそのものであることを見ることができるよう,確認できるよう鏡として伝える側が存在していると見ることもできます。)

それが、ときには厳しく感じられたり、疑問や不信感を抱かれたり、不親切だと思われる場合もあるかもしれません。
様々な存在の現れた方があり、伝えられ方も様々だと思います。

すべてが(本質において)全く同等で、自然で真に普通で、在るがままに在れるようになる、
これまでは視点、焦点、立ち位置が違っていたために、違って見え、違って感じられ、違って体験されてきたが、
実は、これまでもずっとそうであった(すべてが同等で、自然で真に普通、在るがまま)、
そして、今もそうであり、さらに、これからもずっとそうである、
それだけがある、
それだけしかない、
ただそうである、
ということが、存在全体を通して腑に落ち、体現、実現されること、
時間、空間のすべて、そこに現れたすべて、今現れているすべて、これから現れるであろうすべてが包括され、
そして、その中に在りながら、同時に超えて在れることが、
存在の自然本性の求めるところのひとつであり、
ひとつの自然で、かつ、大切なプロセスであると理解しております。

無空庵でよく使う簡単な言葉で言えば、ただ在れるようになる、真に在るがままに在れるようになる、ということです。
(このときは、なる=在る 色即是空、空即是色 も理解できるようになっているでしょう。)

本質について話しながら、手取り足取りとても親切で分かりやすく、相対的に進んでいる実感が持て、
個別、特定の領域において、相対的によい結果、臨んだ具体的な結果が得られるものもあるでしょう。
それはとても素晴らしいものであると思いますが、
それでも、本質に近づているようで、まったく届いていない、
ときには、逆に遠ざかっている場合もあるかもしれません。
(本質について話したりしているものの中で、それが一見同じように見えたり、一見似ているように見えるものでも、
ある意味、全く別物と言える場合があります。)
また、たとえ、在るを体験し、知ることができたとしても、在るが主とならず、
その後の現れも統合された真にトータルで自然で普通な在り方から、逆に遠ざかってしまう場合もあるでしょう。
(これもある意味、全く別物ということもできます。
また、「遠ざかる」というのは、存在全体において、あるいは、立ち位置、焦点、在り方、理解等においてということであり、
本質的には、ずっとそれそのものであるということもお忘れなく。)

マインド側、現れた個別存在からは、不親切に感じられることが、本質、存在全体にとっては、最高の親切、絶対の親切である場合があります。

多くの存在、様々な理解にある存在に、同じ理解になるように分かりやすく伝えられる能力は、本当に素晴らしいですし、核に真の愛があるとも言えますが、
そのような能力、才能をもった存在でも、多くの方に分りやすく同じように伝えられるのは、現れレベルの範囲内のものに限ります。
また、本質をすべての存在に分かりやすく伝えようとする場合は、一面的になってしまったり、薄まってしまったり、表面的になったりすることがあります。
はじめからそのような意図、理解をもってされる場合はよろしいと思いますが、それでも、真に求めている人、あるいは、すでに知っている存在にとっては、それらは、とても表面的で薄っぺらく感じられる場合があります。
逆に、理解の程度やそれぞれの立ち位置、視点により、様々に受け取られる可能性があるのを承知の上で、シンプルな言葉、数少ない言葉
(ときには、様々な側面や相対的な矛盾も含み超え、トータルな在り方を伝えるため、あるいは、ただそれが現れた結果、
マインドでは混乱してしまうくらい非常に多岐にわたる内容で、非常に長い文章になることも含め)で、その存在、その理解から直接に起こる場合は、それは本質を伝えるのに十分な力、響きを持っています。
それは、分かる人に分る、分かる人にはとても親切に分かりやすく書かれている、と感じられるものであり、
(言葉としては分からなくても、真実の響きが感じられる場合もあります。)
そうでない人にとっては、まったくわけがわからない、あるいは、ただ言葉を使いまわしているだけのように感じられたりするものです。

理解の程度、深さ、広さにかかわらず、理解できる領域(現れレベル)のものと、
それぞれの、また、そのときどきの理解の程度、深さ、広さによって、まったく違ったように理解されるもの
(相対を超えた本質、相対、矛盾を含み超えた真実、トータルな真実))があります。

マインドで分かりたい、誰かに聞いたり、本で読んだり、ブログで読んだりした特定の状態になりたい、という方が強いうちは、
無空庵のセッションは、不親切に感じるかもしれません。
それは、(マインドで分かりたいというところにも、できるだけの範囲でお応えしながらも)そっちではない、そこにはない、
そこではない、というところなので、現状を肯定しながらも、在るの方に意識を向けなおしていただくよう、
何度も何度も繰り返し繰り返しお伝えさせて頂いているところです。


表面ではなく、深いところで何を求めているのか、部分ではなく、存在全体で何が求められているのか、
目先のところではなく、時間、空間すべてを包括し、そこを超えたところから何が求められているのか、
そこにそれぞれの方の(それぞれの方を通した)個々のセッションで、“応えていく”のが、無空庵のセッションです。

(基本的、本質的なところはお伝えしますが、その理解に応じて、また、求めるもの、そして、その求めるものの深さや明確性等において、共鳴度合い、共鳴により起こるもの、応え方等も自然に異なってきます。━これが、在る・自然における適切であり、親切です。━)

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