真我が真我に覚醒する。

ここでは、「真我が真我に覚醒する。」 に関する記事を紹介しています。
今回は、お試しセッションを受けられた方から頂いたメールの中のご質問への回答の部分を参考までにご紹介させていただきます。

> 一つ質問ですが、
>
> スポーツ選手のゾーンに入るや、ボーっとするときが
> 真我に、繋がってるなどと聞きますが、

ゾーンに入っているときは、マインドが一時的に落ちて(あるいは、静まり)、
真我が純粋にそのまま現れている状態ということもできます。
ボーっとしているときは、マインドは静かな状態ですが、ゾーンに入っているときとは
クリア度合い、明晰度合い、覚醒度合い等が違うと言えるかもしれません。
(意識的にボーっとしているのであれば、それなりに気づいている状態にあると言えますが。)
別の視点からは、真我とつながっていないときなどない、ということもできますが、
ひとつのポイントは、ゾーンに入っているときも、ボーっとしているときも、
その状態だけでは、まだ真の自己としての自覚、そこからの自己理解が起きているとは言えない、という点です。
(ゾーンに入っているとき、ボーっとしているとき、どちらも素晴らしい状態ということもできますが、
本当の自分を知るという点では、それが起こっているとは限りません。)


>
> それと、意識に意識を向けるは、逆な意識の使い方な感じがしまして、

ボーっとしながら、それを自覚できればよいですが、慣れていないとはじめはそれなりの努力が必要になる場合が多いです。
慣れてくると、より自然なものとなっていきます。
>
> 意識を向けてると、リラックスできず、
> 自分を、見張ってる感じがするのですが、
> そのような感じで、よいのでしょうか?

前述させて頂いた通り、自然なものとなるまでにはそれなりの努力が必要になります。
もし可能であれば、意識を向けながら少しずつリラックスしていってみるというのもよいかもしれません。
通常は、意識的に意識を向けることをシンプルにただ繰り返してくことにより、
それは徐々に自然なものとなり、まったく努力のいらないものとなっていきます。

はじめのうちは、見張っているように感じる場合もあると思います。
それは無意識的にボーっとしているより、覚醒した状態です。
それを繰り返していくことにより、それはより努力のいらない自然なものとなっていきます。
(どこまで行っても努力が必要だったり、楽でない感じがする場合は、力み過ぎていたり、どこかずれている場合があります。
セッションでは経過を見ながら、その辺りの確認等も行っていきます。
また、長く保持しようとしたり、途切れさせずに意識を向け続けようとしていると過度の緊張や力み、頑張りが入りやすいかもしれません。
無空庵の実践は、気づいたら在るに戻る、在るに意識を向ける、であり、長く保持しようとしたりする必要はありません。
意識を向けて、それが自然に続くのであれば、そのままに。もしまた他に注意が向き、それに気づいたら、ただ在るに戻る、です。)

真我は、覚醒状態、明晰であると同時にリラックスしています。

ボーっとしているのは、リラックスという点では素晴らしいですし、
リラックス自体が価値のあるものであるとも言えますが、
そこには、それ自身に覚醒しているという自覚がありません。
状態はそれ(真我)であるとも言えますが、それ(真我)は自己に気づいていません。
それはひとつの言い方をすれば、自己に開かれていない状態、
自己に関しては、まったくの無自覚、無意識、無知、無明というふうに言うこともできます。

それ(真我)を知っている人(理解の深さ、トータルさ等はそれぞれです。)が、
それを真我の状態である、真我とつながっているというのは分かりますが、
大事なポイントは、それを真我として自覚できること、
それを真の自分自身として認識し、直接理解できること、
実感として直接的にそれが分かること、

真我がそれ自身を自覚すること、
真我として自覚することです。

真我がそれ自身に開かれる、
真我が真我に覚醒します。
真我が自分自身を知ります。
はじめて知ります。
(それはすべてであり、時間も含み超えて在り、すでにそうであるものでもあるため、初めて知ると同時に、
再認識、思い出す、すでにそうであった、ずっとそうであったこと、もともとそうであったことを認識するという側面もあります。)

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