無空庵のゼロ意識共鳴セッションは、ラマナ・マハルシ、フーマン、エックハルト・トール氏等の言及する悟り、真我、本当の自分を知る方法、悟りを開く方法、真の平和と幸せ・真我覚醒・真我実現を促す方法です。

ゼロ意識共鳴で、真我・無限の愛である本当の自分に目覚め、本当の自分を実現する!

※こちらのブログは、無空庵第一ブログ「悟り・覚醒・真我・意識の目覚め・無・空・本当の自分を知る方法 ゼロ意識共鳴で心の平和・愛と幸せを実現」(2010年1月~2015年11月)を継承したものです。
これまでのブログは相当量の記事が蓄積され、「目的の記事を探すのに時間がかかる」などのご指摘をいただいたこと等もあり、 読者の方の利便性も考慮し、今後の記事はこちらのブログ(無空庵第二ブログ)に掲載致します。
また、過去の記事で必要と思われるもの等はこちらのブログにも掲載、または移設いたしますので併せてご覧ください。
また、過去の記事のほとんどは、これまでのブログにて引き続きご覧いただけます。


真我はただ在る。ただ自分自身(愛)である。シンプルな生き方。シンプルな在り方。
無空庵で、真の自己、本当の自分を知る。「愛」(存在の愛)と「空」、そして「在る」こと(自分自身であること)の素晴らしさを知る。
悟り・覚醒・無限の愛と幸せ・真の平安を実現!

無空庵では、スカイプを利用し、、ゼロ意識共鳴個人セッションを行っています。
個人セッションは、ゼロ(仏教では空)の意識場の共鳴ワークであり、心の変容法、本当の自分を知る方法、無限の愛と自由、心の平和、本当の幸せ、真我覚醒、真我実現を促す方法です。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、フーマン、エックハルト・トール等の言及する「悟り」「覚醒」「真我」「本当の自分」の実現をサポート!

※多忙のため、セッションに関するお問い合わせの返信には、数日~1週間くらいかかることがあります。また、同様の理由により、申し訳ございませんが、読者の方からのセッション以外に関するご質問にはお答え致しかねます。ブログへのコメントにもお返しできないことが多いと思いますが、あわせてご了承願います。

★公開・週一合同ゼロ意識共鳴
※どなたでも意識参加自由。
毎週木曜日21時30分から30分間。 2011・11・10~

本当の自分とは


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

本当の自分とは、どの視点、どの立ち位置から見るかで、その答えも違ってくるかも

しれません。

個人をベースに、現れの領域に関して見ていけば、その多様に現れる様々な質、

それぞれの資質、個性、特質等を見ていくことになるかもしれません。

また、自分探し、本当の自分探し等の言葉がありますが、それを自我、個人を含め、

この変化し続ける現れの世界の中に見ていくならば、

自分探しに終わるがくることはないということが言えます。

(もちろん、次々に変化していく新しい自分を探していく、ということを楽しめれば
それは素晴らしいことです。)

本当の自分、変わることのない本質は、

マインドを超えたところに在る


次々と変化し続ける自我、個人、マインドではなく、変わることのない自分、

そういう意味での本当の自分、本質、真の自己、真我とも言われるそれは、

マインドを超えたところに在ります。

それが、真の意味で、自分探し、あるいは、マインドの探求を終わらせることができます。

(真我自身の自然本性である、それ自身を無限に知っていくというプロセスは続いて
いきます。
それは、本当の自分を知った上で、欠けたものがないまま、満たされたまま、続いていきます。
参考:ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より
『探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。』
『実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。』)

狭義の「本当の自分」、広義の「本当の自分」


それは、現れの世界にもありながら、同時にそれを超えています。

本当の自分、真の自己、真我は、すべてを貫いています。

現れの領域だけでなく、その源を含めた視点からは、本当の自分とは、

現れては変化し、そしてまた消えるということを繰り返している自我、個人ではなく、

その源であり、また、そこから現れすべて貫いている本質、真我、真の自己が

そうであると言うことができます。

それは、相対を超え、時空を超え、変わらずに在るものという意味で、

「本当の自分」という言い方ができると思います。

また、そこから現れた一時的で、個別性を持つ自我も含め、全体を「本当の自分」

と言うこともできます。

前者は、変わることのない本質部分、ある意味狭義の「本当の自分」、

後者は、変わることのない本質、そして、そこから現れた一時的な現象としての自分、

個人、自我をも含めた広義での「本当の自分」、

あるいは、よりトータルな視点からの「本当の自分」という言い方ができると思います。

本当の自分が実現されていくプロセス


まず、変わることのない本質部分、ある意味狭義の「本当の自分」を知り、

そして、それを変わることのない確かな土台として、

そこから現れた自我を含め、すべての現れも「本当の自分」であると理解、統合されていく

プロセスがあります。

参考:ラマナ・マハルシ「あるがままに ラマナ・マハルシの沈黙の教え」より

【質問者:

「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とは
シュリー・シャンカラーチャーリアの」常套句です。
しかし、別の人たちは、「世界は実在である」と言います。
どちらが真実なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ:

どちらの言葉も真実である。
それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。
真理の探究者(アビャーシ)は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。
それから彼は世界を非実在として捨て去る。
なぜなら世界は変化するものだからである。
このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探求者は究極的に真我にたどり着く。

無空補足:真我=本当の自分

その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。
実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。

質問者:

バガヴァーンはマーヤ(幻想)と実在が同じものだと言われます。
どうしてそれが可能なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ:

シャンカラーチャーリアは彼のマーヤーの見解について、人々から理解されないまま批判された。
彼はこのように言った。
(1)ブラフマンは実在である。
(2)宇宙は非実在である、そして
(3)宇宙はブラフマンである。
彼は第二番目のところで止まらなかった。
なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。
それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。
したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。

質問者:

そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?

ラマナ・マハルシ:

真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わなければならないだろう。
他に道はない。
ある人が、自分は実在であり、永遠に、全てに遍在するブラフマンだということを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思いこんで、その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は実在でしかなく、それは迷妄なのだということを気づかせなければならない。
なぜか?
なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。
あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼きつけないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。
ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。
そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。
真我を離れて宇宙は存在しないからである。
人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものとして見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。
それはどうすることもできないのだ。
紙を見てみなさい。
われわれは文字だけを見ている。
文字が書かれている紙に気づくものはいない。
文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。
あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わねばならない。
賢者は紙と文字をひとつと見なす。
それゆえ、ブラフマンと宇宙もひとつとして見るのである。

本当の自分とは、すべてのすべて


源もそれ(真我、本当の自分)であり、現れもまたそれである。

すべてはそれであり、それ以外あるものなし。

相対、二元を排除せず、それらを含み貫く一元的な視点、あるいは、

全体的な視点からは、そのような言い方ができるでしょう。

本当の自分を知り、それが実現されていくと


「真我」というタイトルの記事のところにも書きましたが、「本当の自分」を知ることにより、

より現れ(現象)から自由になっていきます。

より安心が増し、存在全体が落ち着き、安定していきます。

生命もより活性化し、より生き生きとしていきます。

本当の自分、真の自己、真我は、

喜び、幸せ、平和、愛、そして、生命そのものでもあります。

本当の自分をより深く知れば知るほど、それらは自然に増していきます。

本当の自分を知る方法 (ゼロ意識共鳴)


無空庵では、本当の自分を知るものとして、真我の共鳴(ゼロ意識共鳴)という形で

本当の自分を知り、それが実現されていくお手伝いをさせて頂いております。

そして、多くの方が、本当の自分、真の自己、真我、真実を生き始めています。

個人体験もまた、非常に貴重で素晴らしいものであると言えますが、

それも含めた上で、本当の自分を知り、それを生きる、

それが自然に生きられるということは本当に素晴らしいことです。

人生、生きることの奥行きは無限に増し、とても味わい深いものとなっていきます。


***********

最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。


K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。


O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。

H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。


今回は、セッションを受けられているまるこさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

まるこさま

感想ありがとうございました。

>> こんばんは
>
> 先ほどは、ありがとうございました。
> 先週のセッションは、とても大きなものでした。
> 本当の安堵、安心。を手に入れた
> ように思いました。
> そして、大きなパワーも。
>
>
> 言葉では伝えきれない感じだったと思いました。

はい、存在にとって、本当の素晴らしい大きな大きなことが起こりましたね。
>
> 今回の。セッションも
> 頭は空っぽ。。
> 心身から、私の閉ざしていたピュアな感覚が
> どんどんと開いて行くようでした。

真の安心があると、それらは自然に開かれていきますね。
>
> 先日から
> 偶然思いついた
> 世界の名言と私の絵をコラボした
> 作品を作っています。
>
> しばらくは、こういった形で
> 表現して行こうと思います。

それはとても素晴らしいことですね。
>
> まるこ。

ありがとうございました。

無空

真我とは


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

真我とは、本当の自分、真の自己、

また、それは無であり、空であり、愛そのもの、平和そのものでもあります。

サンスクリット語では、「サット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)」とも表現されており、

それは、存在そのもの、気づいている意識、至福そのものです。

近年の2大覚者とも言えるラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジが言及している

のも、真我(存在・実在・在る)についてです。

真我とは、自我、思考、感情、様々な事象、現象、世界、森羅万象すべてを含めた

あらゆる現れの源であり、また、同時に、その現れたすべてでもあり、

それはすべてのすべてであり、覚者方が、「それだけがある。」と言っているものです。

真我覚醒


それは、もともと在り、すべてを支え、すべてを育み、すべてを包んでいるもの

でもありますが、

多くの場合、気づいている意識でもある真我(現れの源としての真我)が

そこから現れた自我とミックスされていて、

純粋なそれ、

真我、本当の自分には、純粋な状態では気づかれていません。

(それはすべてのすべてでありますが、はじめに、現れの源である変わらない
本質部分としての真我に気づかれ、
その変わらない本質部分である真我を土台として、そこから、その現れも同じく
真我である、その本質においてはまったく同じ真我であると理解され、
統合されていくプロセスがあります。)

そして、その状態、その在り方では、分離感を伴う自我が主体となり、

自我が唯一の自分であるという理解をもとに、

様々な経験、体験がなされます。

もちろんそこには、素晴らしい体験もたくさんありますが、真我の視点、

すべてはひとつであるという視点が欠けていると、

深刻さ、不自然さ、重さ、複雑さ、苦しみ等も増してしまう可能性があるとも言えます。

それら苦しみ等から根本的に脱却するには、

まったく違う立ち位置、違う視点に、自然に立てるようになることが必要です。

そして、それを可能にするのが、本当の自分、真の自己、真我、真実に気づくこと。

真我覚醒です。

真我の目覚め


自分は、個人、自我であったと思い込んでいたところから、真の自己、本当の自分、

真我に目覚めるのです。

(覚醒後も、自然な必要性等から個人感覚も起こってきますし━より透明で、
軽やかな個人感覚になっていきます━、
必要な習慣、記憶等は、全体の調和の中で自然に働きます。
ただ、覚醒、理解が深まれば、本当の自分とは真我であるという理解が、
起こってくる個人感覚等すべてを支え、
それらにも浸透し、とてもバランスがとれ、全体でひとつとして安定し、
とても自然な状態になっていきます。)

ある意味、本質、真実に対し、眠っていた状態、無意識であった状態から、

“目覚める”という表現もできると思います。

それは、“すでにそうであったものに気づくこと”です。

またそれは、それまでの思い込みや観念からの解放でもあります。

真我実現


真我をそれ自身として知ることにより、

(覚醒が起こっても、自我、マインド、個人が、真我を知ったとし、
それが主体になっているうちは、
それは、覚醒したエゴ、悟った自我という言い方もできるかもしれません。
それは、真の覚醒、真の悟りとは言えません。
主体が個人から真我へシフトしていく必要があります。
あるいは、個人が真我に溶ける、または、真我の直接的な理解が個人に浸透する、
個人が真我の深い直接的でトータルな理解に貫かれ、純化、変容、成熟する必要が
あります。)

思考、感情、そして、それらを所有する個人からより自由になっていきます。

問題と思っていたことが問題ではなくなっていきます。

(状況も変わっていく場合もありますし、状況はそのままでも、
それを問題とは捉えなくなっていきます。
深刻さ、重さ、不自然さ、複雑さ等が減っていきます。)

自由が増し、喜びが増し、創造性も増していきます。

真我をそれ自身として知ることにより、愛にあふれ、感謝、思いやり等も増していきます。

より自然で、軽やかで、楽で、シンプルになっていきます。

落ち着きが増し、穏やかさも増し、くつろいで、安らいでいられるようになっていきます。

人生の奥行き、生きることの味わいもより深まっていきます。

それは、他の何かを知ること、他の何かに気づくことではありません。

自らに覚醒すること、

自己覚醒、

自己認識、

自己実感、

真我としての真我についての直接的な自己理解です。

そして、多くの場合、真我に気づいても、それまでの自我の習慣、パターンが

多く残っています。

そこから、真我で在ることの実践を繰り返し、それが自然なものとなること、

それが自然に生きられるようになることを

真我実現という言い方もできるでしょう。

(ある意味、恒常的、恒久的な真我実現という言い方もできるかもしれません。
状況等により、あるいは、真我が日常的に実現されるようになるまで、
一時的な実現、一時的に真我がトータルに現れるということはあります。)

それは、本当に素晴らしい状態、素晴らしい在り方の実現です。


***********

最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。


K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。

O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。


H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。

今回は、セッションを受けられているMonaさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

Monaさま

感想ありがとうございました。

> 無空様

> 本日も素晴らしいセッション、ありがとうございました。
> 3ヶ月ぶりでしたが、セッション中、この3ヶ月間の体験をトータルに感じ、このプロセスが大切だったことを何度も感じました。
> 乾いた心に滋養が与えられ、本来のエネルギーが取り戻されつつあることを感じると同時に、それが自然なる流れの中で為されていることも感じています。

3か月の間、本当に大変でしたね。
ご自身の無理のない自然なペースで、本来のご自身を取り戻していってください。
そして、その自分は、これまで以上に強く、大きく、しなやかで、あたたかく、そして、奥深く、豊かになっているでしょう。
>   
> では、感想をお伝えします。

> 最初の共鳴
> 軽やかにやわらかく広がるものと、ハートで収縮するものを同時に感じました。
> 収縮するものが、このままでいたい、留まりたいことを感じましたが、やがて固さがなくなり、ぼんやりとして身体に吸収されていくことを感じました。

統合されていきましたね。

> やわらかく広がるものは、水面に輝く光のように、美しくきらめいていました。
> 後半は、ハートでゆったりと呼吸していました。

> アイコンタクト
> 愛がさんさんと輝いていることを感じました。

愛が、輝きが戻ってきましたね。
(本当はどこに行ってるわけでもなく、ただそれが見えなくなっていただけ、感じれなくなっていただけ。)

> 背中の重いエネルギーがゆっくりと愛によって動かされることを感じ、愛はどんなに重いものも動かすことを感じました。
> エネルギーの動きを感じると、自分が取り戻されていくことを感じました。

> 瞑想
> 深い落ち着きを感じると、静謐な闇を感じました。
> その闇は、一点の曇りもない美しい闇でした。
> 闇とはなんと美しいのだろうということを深く感じました。
> 自分の体験と重ねることで、貴重で深い理解として根付いたように感じました。

純度、均質、それでひとつであること・・・

闇とは、まさに在る、愛、ただひとつであるすべて、原初そのもののひとつの在り方です。


(姿かたちなきそれ、現れていないそれ、定義不能、捉えること不可能なそれ、

未知なるもの、マインドの届かないもの、

相対的なものではない闇、すべてを包含し、すべてを包み込んでいる闇、

全てを生み出している闇、すべてが帰っていく闇、

すべてを支え、すべてを育てている闇、

すべてが安らぎ、すべてが寛ぎ、すべてが落ち着ける闇、

現れた光と相対するものではない闇

━現れた闇にもその質はありますが━、

また、全体の自然な必要により、

どのようにでも現れ、

どのような大変な役、大きな役でも担うそれ、

現れ的なすべてのネガティブ、怖れ、悲しみ、苦しみ、

また、誹謗中傷、非難、困難等すべてをその一身に抱え、抱き、

また、現れの世界における実際的な大変さ等を、

真の愛のもと、無限の深き愛のもと、全き愛のもと、

無限の純度、無限の強さで遂行するそれ、とも言え、

また、実際に今回のように、すべての根源でもあり、また、すべてを包括するそれを

「闇」━純粋な闇、静謐な闇、美しい闇等━と感じられることがあります。)


闇のそれ自身への気づき、自覚、覚醒が光という見方もできます。

気づきそのものが光です。

根源的な光、原初の光と言ってもいいですね。

自分自身に対して明るいこと、開かれていること、

そして、(自分自身に)気づけば気づくほど(自分自身を知れば知るほど)、その輝きは無限に増していきます。

光は闇の別の在り方であり、闇は光の別の在り方です。

両者は別のものではなく、ただひとつであるものそのものです。

今回は、ご自身の体験と重ねられたことで、書かれてあるように、本当に貴重で深い理解となったことと思います。

> ハートの共鳴
> ハートのよろこびと哀しみを同時に感じると、自然と涙が溢れました。
> 現れた涙が、理解そのものとなりました。

とても奥深くトータルな感じ、ひとつであるもののの感じがしますね。

> 立場をかえて
> 動くことのよろこびを感じました。
> そこに生命の循環があり、よろこびがあるという理解が起こりました。

ただひとつであるもの(在る、愛、全体、生命)がそれ自身に気づくこと、

ただひとつで、純度100%、均質であるものの中の距離なき、時間なき気づき、

ゼロ距離、ゼロ時間、ゼロ場での気づき、

気づきそのものの中の気づき、

純粋な気づきそのものの中での気づくという動き、

移動距離ゼロ、所要時間ゼロの動き、

動きなき動き、

その気づきが、不動の中の動、

止まることのないそれ自身の中での永遠の循環、

けっして同じ循環はない無限の循環、

無限の展開、

無限の躍動、

それは、ただひとつのものである生命そのもののそれ自身における循環、よろこびです。

それは、それ自身に気づくことのよろこび、

それ自身を感じること、それ自身を体験することのよろこび、

それ自身を知ること、何度も知ること、どこまでも深く知っていくことのよろこび、

生命そのものにとって、気づくこと、動くこと自体がとても大きなよろこびです。

そしてそれは、在ること(生命)の中に含まれています。

(自己、自身が)在ることに気づけること、(それ自身の中で)動くことで在ることに気づけること、

それは在るの自然本性(愛)、在るの、在ることによる自然本性(愛)です。、

それが根源的なよろこび、

そして、在りて在るもの、存在にとっての至高のよろこびです。



> 立場なし
> 不動なるものここに在りという言葉が浮かびました。
> 不動なるものは愛であり、後半は愛が太陽のように大きく輝いていることを感じました。

ご自身を大きく、そして、これまで以上に取り戻されてきているようですね。

不動なるもの、不変なるものは、その本質において不動のまま、不変のまま、そのように成長していきます。

無限に成長していきます。

> ご無理を申し上げますが、次回のセッションもよろしくお願いいたします。

> Mona

こちらこそよろしくお願い致します。

無空

悟りを開くとは、本当の自分に開かれること


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

悟りを開くとは、一般的に、心の迷いが解けて、真理を会得すること、

開悟すること等言われています。

覚者方、すでにそれ(真理、真実、真我、実在、実相)に開かれている方々の

表現の中には、

誰もがもともとそうである(真我である)、

本質においては、誰もが例外なくすでにそうである、というものがあり、

それも確かなひとつの真実ですが、

「悟りを開く」という視点から見ていくと、

それ(真我)がそれ自身に気づき、それ自身に開かれること、

真我が直接にそれ自身を知ること、自己理解、自己認識、自覚、

あるいは、それは、すでにそうであるものの再認識という言い方も

できるかもしれません。

悟りを開くとは、それまで気づかれていなかった本当の自分、

真の自己、真我に気づくこと。

自分自身、真の自己に目覚めること、覚醒すること。

本当の自分に開かれること。

本当の自分を認識すること、自覚すること。

と言えます。

悟りが開かれていくプロセス等も様々


悟りを開く深さ、気づきの深さ、トータルさ等はそれぞれであり、

また、それがどれだけ、そして、どのようにマインドを含めた存在全体を

変容、成熟等させていくかも、それぞれのプロセスがあります。

人によっては、いわゆる悟りの一瞥、悟り体験が一度でも起これば、

悟りを開いたと言う方もいるかもしれません。

(一度の体験により、それまでのパターン等から自由になり、

存在全体が大きく変容し、まさにそれが会得される、それそのものとなる、

ということも考えられますが、多くの場合は、そこからさらなる真摯な実践等を

継続していくことにより、徐々に存在全体の変容が進んでいきます。)

また、冒頭に書かせて頂いたように、「会得された」という段階になってはじめて、

悟りを開いたとする方々もいるかもしれません。

現れの世界を通して、悟りを開く、悟りが開かれる


本質はもともとそうであり、すでにそうであっても、

それが自覚され、理解され、実感され、

それ自身の意識の中に開かれなければ、

ある意味、それは無きに等しい

と言うこともできます。

真我自体は、生死を超え、この現れの世界を超えている、

あるいは、それらを含み、そして超えていると言えますが、

それが実現され、生きられるのは、この現れの世界を通して

と言うことができます。

気づいていなかったものに気づかれる、

開かれていなかった真実、真我の認識、自覚、理解に開かれる、

それを

悟りを開く

悟りが開かれる

そのように言うことができると思います。

それ(真我)自身に悟りが開かれる


そしてまたそれは、その本質においては、個人に開かれるのではなく、

それ(真我)自身に開かれる、と言えます。

(悟りを開くとは、別の視点からは、個人、マインドを超えることとも言えますので。

もし、個人的な「私」が悟りを開いたと言っているようなケースがあれば、

それは、真には、悟りを開いたとは言えません。

もちろん、悟りを開くという言葉自体が、

真実を指し示すためのひとつの道具であり、

方便であるという言い方もできますし、

また、自然な必要性、全体の必要性、状況等から、

私は悟りを開いた、とあえて表現するケースもあると思われます。)

悟りを開く、そしてそれがより深まっていく


そして、それが起こるのは、突然です。

様々な実践を重ね、また、様々な人生の経験を重ね、

その存在に準備ができたときにそれはトータルに開かれてきます。

また、状況、環境等により、それが一時的に垣間見られる、

ある意味、事故的に体験される、その一片が部分的に開かれる

ということもあります。

そのような場合も含め、実践を重ねながらトータルに開かれてきた場合でも、

多くの場合は、悟後の修行という言葉があるように、

それまでの習慣、マインドのパターン等から徐々に自由になっていくプロセスがあります。

悟りを開く、そしてそれがより深まっていく、

本当の自分とは何ものであるのか、どのようなものであるのか、

自己理解の深まり等のプロセスがあります。

そしてそれは、仏教の方で言われる悟りの階梯(ステップ)、禅の十牛図等もあり、

ひとつの完成というものがあると捉えることもできますが、

また別の視点からは、真我(本当の自分)の自己理解の深まりは、

無限であるということができます。

(参考:ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より

『探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。』

『実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。』)

それ(真我)自身は不変不動でありながら、同時に、

それ自身への気づき、認識、実感、理解の進展は止まることはありません。

それは不変不動のまま、広がり、深まり、高まり続けていきます。

真我は、それ自身の中で流れ、循環し、それ自身を常に超えていきながら、

絶えることのない自己更新を、無限に、永遠に続けていきます。

悟りを開く方法


悟りを開く、悟りが開かれるのは、ある特定の決まった方法でなければならない

ということはありません。

何かのきっかけでそれが自然に開かれることもあります。

それは、ある状況、環境下で突然起こるかもしれません。

様々な修行や瞑想を行った結果、起こるかもしれません。

何の前触れもなく、普段の日常の中で突然起こるかもしれません。

人生の中でのある大きな経験を通して、悟りを開くかもしません。

セミナーやセッションの継続の結果、それが起こるかもしれません。

探そうとしていると見つけられない、

求めているうちは悟りを開くのは難しいなどとも言われますが、

探していない人、求めていない人すべてが悟りを開いているか、

本当の自分、真の自己、真我に気づいているか、

その自覚、理解のもとに生きられているか、というと必ずしもそうではありません。

また、探すのをやめた途端、求めるのをやめた途端、

すべての人がすぐに悟りを開くことができるか、

というとやはりそうとは限りません。

前述の言葉(「探そうとしていると見つけられない」、「求めているうちは

悟りを開くのは難しい」)は、

本質をついているとは言えますが、やはりその言葉をマインド的に、

一面的、表面的に捉えただけでは、望むものは開かれません。

また、もし本質をある程度理解できたとしても、

マインド等が成熟するにはやはり時間がかかります。

世の中では、「悟りを開く方法」、「悟りを開くには」等、様々なことが語られ、

また、示されたり、サットサンやセミナーやセッション等も行われています。

対象に気づく |悟りを開く方法


悟りを開くための実践として、意識の自然な習慣に基づいた

それ(真我)自身から起こっている対象、現れに気づく、

自身の行動や呼吸、思考、感情に気づく等は、

よく書かれていたり、言われているように思います。

これにより、それまで無意識的に同一化していた

身体、行動、思考、感情等から(感覚的に)離れることが可能になってきます。

(気づいている意識である真我、気づいている主体から

きれいに自我が落ちた状態では━多くの場合、ミックスされています。━、

あるいは、自我、個人が起こっているものに溶け、それとひとつとなった状態では、

それ自身に気づいている行動・行為そのもの、呼吸そのもの、思考そのもの、

感情そのものという在り方になる場合もあります。)

現れからより自由になっていくということで、

このことを「悟りを開く」、と言う方もいるかもしれません。

そのような視点もあるかもしれません。

それは非常に素晴らしい状態であり、在り方ですが、

それだけでは、まだ、気づいている意識自体の自覚、認識、理解が起こっていません。

(もちろん、自我、個人、マインド、現れからより自由になっていく過程で、

気づいている意識自体に気づく、本当の自分、真我に気づく、

悟りを開く、ということが起こる可能性はあります。)

意識(真我)のそれまでの習慣、傾向は、

それ自身から起こり、それ自身と距離のある対象に気づくというものであり、

意識、あるいは、気づきがそれ自身である気づきに気づくというこは、

習慣として身についていません。

(何かのきっかけ、状況等により、気づきがそれ自身である気づきに気づく

というこが自然に起こることはあります。)

ですから、まずは、それ自身ではないけれども、それ自身から起こる

身近な対象である思考や感情に気づくということを行い、

それに慣れていきながら、徐々に気づきそれ自身にもより気づくやすくなっていく

というアプローチがあります。

もちろん、それ以外にも、悟りを開くために上記の方法を提唱されていらしゃる方々には、

深い視点、深い洞察があるものと思われます。

瞑想|悟りを開く方法 


また、瞑想等で、心を静かにしたりすることにより、思考等動いている対象ではなく、

その思考等に気づいている意識自体に気づきやすくなることもあります。

何を知るのか、

何を悟るのか、

何に開かれるのか、

何に目覚めるのか、

何に覚醒するのか、

それは、自分自身にです。

すべてに気づいている意識である真我、真の自己、本当の自分に気づくこと、

それ自身を自覚すること、

それ自身を認識すること、

それ自身の実感、認識、理解に開かれること、

悟りを開くとは、そのようなものであると無空庵ではお伝えさせて頂いております。

本来、真実は言葉を超えており、悟り、悟りを開く、目覚める、覚醒する等の言葉も、

方便、便宜上のものでしかないとも言え、

また、様々な定義、使い方、解釈もあり、また、誤解の多い言葉でもあるとも言えますが、

無空庵では、ひとつの在り方を指し示すものとして、必要に応じて、

「悟りを開く」等の言葉を使わせて頂いております。

ゼロ意識共鳴セッション |悟りを開く方法


さて、様々に悟りを開くための方法、悟りを開くためのアプローチが

提供されている現在ですが、

無空庵では、それ(真我)を深く知る意識からの直接伝授の方法として、

ゼロ意識共鳴セッションを行わせて頂いております。

共に在ることによる共鳴での直接伝授等に関する記述として、

参考までに、覚者方の言葉等をいくつか挙げさせて頂きたいと思います。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」より

【まずサットサンとは、実際には、非顕現である真理(サット)あるいは絶対的存在との交際を意味している。
だが、それができるものは非常にまれなため、弟子は二番目に効果的な顕現された真理、つまりグルとの交際を選ばなければならない。
想念は執拗に起こり続けるため、賢者との交際はどうしても必要となる。
賢者はすでに心を克服し、平和の内に在る。
彼の臨在の内にあることは、この平和の状態を他者にもたらす助けになる。
さもなければ彼との交際を求める理由はない。
グルは誰に見られることもなく、このために必要とされる力を弟子に与える。】

【沈黙のディークシャーは最も完全なものである。】

【グル(師・教師)が沈黙していれば、弟子の心は自動的に浄化される。】

【グルの眼差しには浄化作用がある。
その浄化作用を目で見ることはできない。
石炭を発火させるには長い時間が必要であり、木炭であれば短い時間ですむ。
火薬であれば発火は瞬時に起こるだろう。
マハートマのもとを訪れる人の段階もそれと同じである。
智慧の炎はすべての活動を燃やし尽くす。
賢者の交際(サットサン)、あるいは彼らとの精神的接触によって、智慧は培われるのである。 】

ラマナ・マハルシ「不滅の意識」より

【賢者たちと親密に生活し、共鳴して接触している人々は、彼らから徐々にサマーディ(真我への吸収)の習慣を吸収します。】

「パワーか、フォースか」より

【エネルギーフィールドが550か、それ以上で測定される指導者がそばにいることで、まだ悟りを開くに達していない弟子たちが崇高さを体験することはよくあります。
これは、パワフルなアトラクターフィールドが優先することによって起きる「同調化」のプロセスを通して現れます。】

【精神の修行をする人たちは、師のエネルギーに自分を合わせることです。そして、レベルの高い師にただ焦点を合わせるだけで、自分の進歩を促すことができます。】

フーマン「恩寵の扉が開くまで」より

【プレゼンスやビーイングやハートの境地は、だんだんとマインドを変容させるし、教師の臨在もマインドを変容させる。】

【古い時代の究極の教えは、唯一沈黙を通してのみだった。
マスター臨在の下で、直接に真実が伝達される。 】

フーマン「恩寵の扉が開くまでⅡ」より

【私たちが一緒に坐ると、これがあなたの中で活性化する。
そうしてそれに対して開く事で、奥義が伝授される。 】

【伝統的な弟子とマスターの関係では、アシュラムがあり、弟子は長年マスターの下に止まった。
そうすることで、そのエネルギーの下で成長が起こった。
今、私がアシュラムを持つ必要はないが、私はあなたをガイドする。
そして「これ」をあなたの中で開き成長させていく。 】

このように、共鳴伝授というものは、悟りを開くためのひとつの方法として、

古来からサットサン等により行われてきたものですが、

無空庵では、それを1対1で、相手の方に合わせ、

もっとも凝縮した形で行わせて頂いております。

これまでの習慣、本当の自分を知らず、気づいている意識の自覚がない状態で、

マインドのパターンに無意識に巻き込まれ、

また、それと同一化していた習慣を変え、

真我の自覚、自己認識、自己理解に開かれ、

そしてそれがより定着し、より確かなものとなっていくよう、

言い換えれば、悟りを開くため、そして、その開かれた悟りをより確かなものにし、

より深めていくため、週1回の定期的な継続セッションという形で

行わせて頂いております。

そこでは、初めに、それを深く知る意識との共鳴場の中で、

「意識(真我)」、「在る(実在)」について、お話ししながら、

確認、お伝えしていきます。

はじめてのセッションでお分かりになる方もあれば、

徐々に分かってくる場合もありますが、それは大きな違いではありません。

日常での実践。自覚、再確認、再認識。自分自身、在る、気

づいている意識に気づくことを繰り返す。|悟りを開く方法


そして、日常では、起こっている思考、感情等の方ではなく、

それに気づいている意識自体に気づくこと、

あるいは、真我のもうひとつの側面、在るという存在感覚、

あるいは、シンプルにその事実に注意を向けること、

あるいは、それそのものとして在ること(真の自分自身であること)

を実践して頂いております。

それは、悟りを開く、そして、その開かれた悟り、開かれた理解を、

無限に深めていくための最も直接的で、最も自然で、最もシンプルで、

かつ最もトータルな方法であると言えます。

そしてそのことにより、より自由に、より軽やかに、より平和に、

より幸せになっていきます。

喜びが増し、愛に満ち、本当の自分が実現されていきます。

なぜなら、真我、本当の自分とは、自由そのもの、平和そのもの、幸せそのもの、

喜びそのもの、無限の愛だからです。

悟りを開く、そして、その開かれた悟りをより深めていく、

真我、本当の自分をより深く知っていくことにより、それらは無限に増していきます。


***********

最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。


K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。

O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。


H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。
今回は、セッションを受けられているH.KIさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

H.KIさま

感想ありがとうございました。

> > 無空さま
> >
> > セッションありがとうございました
> >
> > 職場という戦場にいる、マインドの成熟のためという考え方をしています
> >
> > というお話しをしました
> >
> > 井上老子の100%完璧、無空さんがよく言われる「そのもの」そのお話しの流れから
> >
> > 無空さんから
> >
> > 『その状況、その現象の中でその時、現象反応としてはパーフェクト
> >
> > それを問題にするのは現れている個人、巻き込まれる、思考に巻き込まれる、
> >
> > マインドに巻き込まれると言いますけど、自己理解が深まって、在るだけが在るという理解
> >
> > 本当に深くなれば現象を、それまでマインドに巻き込まれたという現象そのものは変わらなくても
> >
> > 巻き込まれた者がいなくなるので、その時の視点からいくと、どうなると思いますか
> >
> > それまでは巻き込まれたという現象が、思考そのものになるわけです
> >
> > 在る、その思考も何もない状態から、思考になって、それが終わったら在るというか
> >
> > ただそれだけなわけです
> >
> > 怒りであったり、感情であったり、ただその在り方が、形が変わっていくだけで、
> >
> > 巻き込まれなくなったじゃなくて、
> >
> > 大きな傾向では、それまでこういう場合には、こういう反応が起こったりとか
> >
> > それが起きなくなったりとか、より穏やかになるというのもありますけども

> > 全くそれが起こらないとか、そういうことではないですね
> >
> > そういう変容ではないですね
> >
> > 思考が起こってたことに囚われないというか、
> >
> > 今そうだったと気づいてる思考そのものだった在る』

(無空補足:在るの理解が深まり、思考そのものとなっているというくらいのときには、

━自己理解が深まり、真に在るがままで在れるようになったとき、

自己をただそのままでいさせることができるようになったとき、

自己理解、全体の理解、世界の理解が深まり、完全な安全、絶対大丈夫等を存在全体で確認でき、

自己に真の自由で完全な自発性の発露を許すことができるようになったときには━

起こってくる思考、あるいは、それ自身がそのものとなる思考も、変容したもの、

あるいは、クリーン、無害なものになっているでしょう。

さらには、全体にとって有益なものとなっている場合も多いかもしれません。

また、まだ巻き込まれていると感じられている場合でも、

起こっている思考がクリーンではないと感じられた場合に、

ただそれがあることをニュートラル(愛)な視点で見ることができれば、それは全く安全で、無害です。

あるいは、無害なものに変容させることができます。

さらには、そこから気づきや、マインドについての理解、全体的な統合等へと進んでいくこともできるでしょう。)
> >
> > 無空さんのお話しを聞きながら、とてもワクワクしていました
> >
> > 同時にその反応にもちょっと驚いていて
> >
> > 「すごく楽しみ」という言葉が何度か起こりました
> >
> > 本当の自分を知りたいという欲求が強く起こりました

本質的なところに響いたようですね。

上記の話し言葉をそのまま書かれた表現だと、

直接セッションを受けられていない方々には分かりにくいかもしれませんが、

ただひとつであるもの、

ただひとつであるすべて、

在る(愛、真の自己)だけが在る、

源も在るであり、その現れ(現象)すべても在るである。

その本質的な真の理解の中で起こることは、

思考に巻き込まれる者はいず、

様々な自然現象が起こるのと同じように、ただ思考という自然現象が起こっただけ、

在るがそのように現れただけ、

在るがそう成っただけ(鳴っただけ、響いただけ、ゆらいだだけ)、


(静かな海と波だった海、どちらも海です。

海を波立たせる力、静める力は、それ自身の自然本性によります。

それは、在ること、それ自身であること、自分自身であることで、ただ起こります。

在るは、自然、自ら然りです。それはそれ自身に起こるすべてを受容するとても主体的な在り方でもあります。)


その在り方の形、形象は変わりますが、 在る、存在しているという本質、事実は変わりません。

本質、事実、真実を深く知るもの(個人ではなく、在るそのもの、気づきそのもの、あるいは、理解そのもの)は、

その形、現れ方に惑わされません。

知っていること、深い理解、それは在り方、立ち位置、意識の落ち着き所を変え、

そしてそれが、起こっていることの姿形、形象は全くそのままで、

その体験全体をある意味全く別なものに変容させます。

(思考が起こること等の体験に関しては、

それと距離を置き体験されることもあれば━思考が起こってくる、思考が起こっていることの体験━、

ただそのものとして、それ自体に気づかれたまま体験されることもあります。━ある意味、成ることの体験、起こっているものそのものとしての体験━

在り方、体験のされ方は様々であり、それはそのときどきの現れた個の状況と全体の状況等を含んだ、

全体的な自然さによります。)


思考も在る、至高の在るです。

起こってくる思考も、真に在るだと知っているか、深くそうだと知っているか、


(そのような理解のもとでは、状況、環境等にもよりますが

全体的な傾向としては、それまでの在り方では必要であり、また、自然だった思考パターンなどが落ちたり、変容していき、

起こってくる思考はより少なくなってくる傾向はあると言えます。)


そのように見ることが自然で、意識せずとも当たり前になっているか、

ただそうなっているか、

それそのものとなっているか、


思考が去った後、

あるいは、それがただ消えた後(形を持たなくなった後)、

今巻き込まれてしまった、と思うものがいるか、

ただ在るだけが在るか、

その違いです。


(ただ在るだけが在ることの気づき、認識、自覚、

そこから、それ自身に起こった確認、理解の自然な現れとして、マインドの形をとってそれが現れてくることはあります。

それ自身に直知が起これば、それは波の波紋のように、存在全体に広がっていきます。

━現れた個の存在全体だけでなく、宇宙全体に広がっていきます。それが宇宙全体を養っていきます。━

存在自体の理解、直知、直覚が、マインドの形を取るのも、直知の自然な波紋、波のようなもの、

とても自然なものです。

━もちろん、マインドの形をとらない場合もあります。━

その他、直知の波紋としてのマインドの現れではなく、在るを核とした成熟したマインドによる確認等と表現した方が適切な場合などもあります。

それは、無限の自己理解の自然さの中で、そのときの自然な自己認識が、自己をより純粋な本質として認識しているのか、

マインド等の現れも含めたよりトータルな自己として認識しているのか、

そのときの無限に包含された自己理解の中の、どの視点、立ち位置、理解、認識が現れてきているのか、

起こってきているのか、によります。)


現れた環境、関係性の中では、自然に思考、また、個人(すべてはひとつであるという理解をベース、あるいは、背景にした上での、

あるいは、その理解に貫かれた上での、名前を呼ばれたら応えられる主体、自他を区別できる主体、個的自己感覚、

体験、記憶等をもとにした理解、それも含めた自己認識)も起こってきますが、

その必要が去れば、残るのは現れの源、本質(本質としての在る)、全体だけです。

あるいは、ただニュートラルな状態(満ちたニュートラル、完全に寛いで在りながら、常に準備万端のニュートラル)、在り方に戻るだけです。

全ての現象は、そこで、あるいは、それ自身の中で起こっています。

ですから、本質的には何も起こっていないとも言え(ただ姿形、感じ方、認識等が変わるだけ)、

同時に、本質の中で起こることのすべてが、本質に実感、実体験、認識、理解を与え、

本質をさらに養い、本質をより深め、より高めていっている、より豊かにしていっていると言うこともできます。


> >
> > 感想です
> >
> > 最初の共鳴
> >
> > 静かな喜び  どっしりとしたものを感じました
> >
> > アイコンタクト
> >
> > ハートへの直撃
> >
> > 瞑想
> >
> > 道が決まったかの安定感がありました
> >
> > ハート
> >
> > 「真」
> >
> > 立場を変えて
> >
> > 普通な感じ
> >
> > 立場なし
> >
> > 落着き

全体的にとてもよい感じでしたね。
> >
> > 次回も宜しくお願い致します
> >
> > H.KI

こちらこそよろしくお願い致します。

無空
今回は、セッションを受けられているK.M(のびのび)さんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

K.Mさん

感想ありがとうございました。

> 無空さん
>
> セッション(第263回目)ありがとうございました。
>
> 感想です。
>
> はじめの共鳴では、「均質であるものそのもの」を感じました。
>
> アイコンタクトでは、「均質である=自分自身への愛そのもの」を感じました。
>
> 瞑想では、「均質であるものそのもの」を感じました。
>
> ハートの共鳴では、「均質であるものそのもの」を感じました。
>
> 立場を変えての共鳴では、「気づきそのもの」を感じました。
>
> 立場なしの共鳴では、「気づきだけが在る」を感じました。

今回も純度のとても高い素晴らしい共鳴でしたね。
>
>
>
> 日常では、
>
> 沈黙が、すべてを包んでいます。
>
> 沈黙が、自分自身であるすべてを愛しています。
>
> 今週は、夫との言い合いが起こりましたが、そのすべてがとても愛おしく感じられました。

今どう在ることができているか(愛そのものとして在ることができているか)がとてもよく分かりますね。
>
>
>
> また、「ただ起こっている」という感じがより強く実感されています。
>
> 起こっては消えていく現れにただ気づいています。
>
> 価値判断や反応がより起こらなくなっています。

変容がさらに進んでいますね。
>
>
>
> それから、より「自然」です。
>
> 在るの実践を意識していません。
>
> 自然に意識しなくなりました。
>
> 自然に「自然」になりました。

それがただひとつであるもの(在る、愛、全体、自然)の在り方、

自然本性です。
>
>
>
> 「生きる」と「在る」は、全く違います。

はい。
>
> ただ在れば、世界に重さはなく、ただ愛が均質に広がっています。
>
> その立ち位置に正しく立てることが、ただうれしいです。

はい、セッションでのお話し、今回頂いた感想からも

どれだけ正しく立てているかがとても伝わってきます。

その正しさは、自己(在る、愛、全体)への愛であり、

無限に更新されていきます。
>
> 真の幸せの伝授を本当にありがとうございます。
>
> K.M

ありがとうございます。

無空

悟りとは


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

「悟り」とは、一般的には、物事の真の意味を知ること。理解すること。

気づくこと、感づくこと

また、仏語としては、迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。

等言われています。

「覚り」と書かれることもあります。

また、「開悟」や「覚悟」という表現もあります。

実際、「悟り」という言葉に関しては、様々な意味で使われ、また、様々に解釈されたり、

理解されているように思います。

ある意味、言葉は、真実を指し示すためのひとつの道具であり、

方便という側面もありますが、

無空庵では、「悟り」とは、本当の自分を知ること。

真の自己、真我を知ること

と捉えています。

それは、個人、そして、この現れの世界、現象世界のすべてを含み、

そして同時に超えている真の自己、本質、真我を知ること。

それ(真我)そのものとして、直接に、それ(真我)自身を実感、自覚、認識し、

腑に落ちて深く理解すること。

存在全体で知ること。

直知、直覚すること。

それ(真我)だけがあり、それ(真我)がすべてであるということを知ること。

悟りをいくつかの視点から


さらに、より具体的にいくつかの視点から挙げてみれば、

「悟り」とは、本当の自分、自らの本質、真我、真の自己は、無であり、空であり、

そこから、「私」という自我、思考、感情、そして、現象世界のすべて、

様々な次元、時空、森羅万象すべてが現れる無限の可能性そのものであること、

すべてが起こっていく真の源、

そして、そこに、現れたすべてが帰ってくる真のふるさとであることを知ること。

あるいは、「悟り」とは、それ自身はまったく変わらず、不動のまま、

何の意図、意志なきもの、特定の何ものでもないもの、非具象なるもの、

未知なるものとしてとどまりながら、

その中で、それ自身の自然本性からすべての具体的な事象、

現象が展開する深遠で玄妙なる絶対場、ゼロ場であること。

それ自身の中で、それら様々な事象、現象、世界、宇宙が起こりながらも、

それ自身の存在性という点において、あるいは、その本質、その真実においては、

本当は何も起こっていない、

と言える、絶対平和、絶対的な安らぎ、絶対安心、絶対安全の場であることを知ること。

また、「悟り」とは、本当の自分、真の自己、真我は、

それ(真我)自身から起こる、あるいは、それ(真我)自身の中で起こる

様々な具体的な現れ、具体的な動き、波、ゆらぎ、事象、現象に気づき、

また、それら様々な現象に気づいている自分自身に気づくことができる純粋な意識、

純粋な気づきであると知ること。

あるいは、「知」そのものであると知ること。

(それは、「悟り」そのものであるということもできます。)

また、「悟り」とは、本当の自分、真の自己、真我とは、

すべてを生み出し、すべてを支え、すべてを育み、すべてを包んでいる

無限の愛そのものであると知ること。

等言えます。

悟りとは、本当の自分を知ること


今、いくつかの視点から、より具体的に「悟り」ということについて挙げさせて頂きましたが、

本当の自分、真の自己、真我は、無限そのものでもあり、その在り方、質、側面は、

無限です。

さらに、「悟り」ということについて、具体的に挙げさせて頂ければ、

本当の自分、真の自己、真我とは、

すべての音が起こる前の絶対的な沈黙、静寂の領域そのもの、

(そこからすべての音が起こっていきます。)

相対を超えた絶対的な喜びそのもの、

変わることのない幸せそのもの、

多様な生命が起こっていき、様々に「生きる」ということが起こっていく生命の源、

生命そのもの、

相対を超えた真・善・美そのもの、

また、それ自身、そして、それ自身から現れたすべてを含む全体そのものでもあること。

それ自身がすべてのすべてであること。

存在する存在性そのものであること。

それらを知ること。

存在そのものとして、それを直知、直覚すること。

そのように、本当の自分、真の自己、真我を知ることを、

無空庵では「悟り」と言っています。

悟りの無限の深まり、広がり


本質、真我、本当の自分は、ただひとつのもの、ただひとつのすべてであり、

もっともシンプルなものでありながら、無限そのものでもあり、

無限の質、無限の側面があります。

そのひとつの質の中にもすべてがあり、それがすべてでもあります。

自分自身が、「空」であることを知ったら、それはひとつの「悟り」と言えるでしょう。

自分自身が、「純粋な意識」、「純粋な気づき」であると知ったら、

それをひとつの「悟り」と言ってもいいでしょう。

そして、それをひとつのゴールという言い方もできるかもしれませんが、

同時にそれがすべてではないと言うこともできます。

本当の自分は、無限です。

また、未知そのものでもあります。

知られる側面、角度、質は無限にあります。

(それでも、それらはけっして別々のものではなく、分けられるものではありません。

真我=純粋意識=知=無=空=無限の可能性=無限の愛=在る・存在性=

平和=幸せ=静寂=全体・・・・

それは、そのひとつひとつのある意味、側面にすべてが含まれていて、

それ自体ですべてでもあります。

そのため、ひとつを知ることにより、「すべてを知った」という感覚も起こり得ますし、

それは正しく自然な感覚でもあります。)

また、その「悟り」ひとつひとつに無限の深まり、広がりがあります。

ですから、無空庵では、より深く、そして、よりトータルに自分自身を知っていく

等の表現を使わせて頂くことが多くあります。

そのように、それ自身は、不変不動のものとしてただ在りながら、

その自然本性により、自分自身を無限に知っていくというのが、

真我、あるいは、知そのもの、また、愛そのものの自然な在り方です。

悟りを実現した覚者の言葉より


参考までに、ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」から、ご紹介させて頂きます。

『探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。』

『実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。』

悟りを生きる、悟りが生きられていく


それは、時空を超え、「悟り」そのものでも在りながら、それ自身の中で、

それ自身の自然本性を通して、無限に自分自身を知っていくもの、

無限に自分自身を悟っていくもの、「悟り」を深めていくもの。

より自分自身になっていくもの、より自分自身で在っていくもの。

愛がより愛を知っていきます。

愛がより愛になっていきます。

愛がより愛を実現していきます。

無限に愛を実現していきます。

「悟り」がそのように実現されていきます。

「悟り」が生きられていきます。

真実の理解が生きられていきます。

真実が生きられていきます。

生命そのものが生きられていきます。

本質、真の自己、真我、愛そのものは、そのように在ります。

悟りとは、愛そのものである本当の自分を知ること


また、「悟り」とは、本当の自分を知ること、

そして、その本当の自分には、無限の側面、質、あるいは、在り方があると

書かせて頂きましたが、

それらを総称し、本当の自分をもし一言で言い表すなら、それは、愛です。

(様々な表し方があると思いますが、無空庵では、ひとつの表現として、

そのように表現させて頂いております。)

愛を知ることが「悟り」です。

それは、存在のもっとも深奥にあるもの、核にあるもの、もっとも大切なもの、

また、それが唯一であり、それだけがある、それがすべてであると言えるものです。

それは、この現れの世界で言われ、感じられるものを含み、

そして、さらにそれを超えています。

思い、感情、さらには、感覚すら超えている、あるいは、含み超えている

と言ってもいいでしょう。

それは、すべてを含み、そして、すべてを超えているものです。

それは、実在そのもの。

そして、絶対的な事実。

すべてに先立ち在り、それ自身はまったく変わらないまますべてとして現れ、

すべてに浸透し、すべてを貫いているもの。

すべてを溶かし、すべてを統合できるもの。

すべてをひとつにできるもの。

そして同時に、すでにすべてをひとつにまとめているもの。

すでにひとつであるもの。

すでにそうであるもの。

それを知ることが「悟り」

真の愛を知ること

本当の自分は、愛そのものであることを知ることが「悟り」です。

悟りのプロセス、悟りの実現


仏教の方では、悟りの階梯(ステップ)として、「悟り」の世界を

「預流果」「一来果」「不還果」「阿羅漢果」の四つのステージに分けて解説されていたり、

四向四果(しこうしか)という八つのステップで説明しています

また、禅の「悟り」にいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表した十牛図

(じゅうぎゅうず)、あるいは、十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)というものもあります。

無空庵では、その「悟り」のプロセス、「悟り」の流れをシンプルに、

真我が自分自身を知っていくプロセス、

自分自身をより深く、よりトータルに悟り、理解し、実現していくプロセスと捉え、

存在の深まり、理解・悟りの浸透、貫き、

そして、それに伴うマインド等を含めた存在全体の変容、純化、成熟という形等で

表現させて頂いております。

真我、空、無限の愛から現れたこの時空の中で起こる一つの流れとして見る場合、

そこにはプロセスがあります。

悟りの一瞥、悟り体験と言われるものからはじまり,

(これは、必ずしも劇的だったり、神秘的なものであったりするものではありません。
それはただ単に、真の自分に気づく、真の自分を知るということですから。
━その気づきの深さ、トータルさ、腑に落ち度等はそれぞれです。━)

悟後の修行と言われるそのプロセスがあります。

(頓悟、漸悟という言葉があります。ひとつの気づき、理解、「悟り」が起こるのは
突然と言えますが、ほとんどの場合は、そこからそれぞれのプロセスを通り、
徐々にシフト、変容等が進んでいくと考えてよろしいと思います。)

無空庵では、真の自己、真我に気づくこと、

それがそれ自身に目覚めることを真我覚醒とも言い、

そして、その気づき、「悟り」、理解が重ねられ、深められ、

マインド等含めた存在全体に浸透し、

その理解、その「悟り」が自然に、日常的に生きられるようになることを

真我実現(悟りの実現)とも言っています。


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最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。
       

K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。

O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。


H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。