■悟りについて

ここでは、「■悟りについて」 に関する記事を紹介しています。

ゼロ意識共鳴で、真我・無限の愛である本当の自分に目覚め、本当の自分を実現する!

※こちらのブログは、無空庵第一ブログ「悟り・覚醒・真我・意識の目覚め・無・空・本当の自分を知る方法 ゼロ意識共鳴で心の平和・愛と幸せを実現」(2010年1月~2015年11月)を継承したものです。
これまでのブログは相当量の記事が蓄積され、「目的の記事を探すのに時間がかかる」などのご指摘をいただいたこと等もあり、 読者の方の利便性も考慮し、今後の記事はこちらのブログ(無空庵第二ブログ)に掲載致します。
また、過去の記事で必要と思われるもの等はこちらのブログにも掲載、または移設いたしますので併せてご覧ください。
また、過去の記事のほとんどは、これまでのブログにて引き続きご覧いただけます。


真我はただ在る。ただ自分自身(愛)である。シンプルな生き方。シンプルな在り方。
無空庵で、真の自己、本当の自分を知る。「愛」(存在の愛)と「空」、そして「在る」こと(自分自身であること)の素晴らしさを知る。
悟り・覚醒・無限の愛と幸せ・真の平安を実現!

無空庵では、スカイプを利用し、、ゼロ意識共鳴個人セッションを行っています。
個人セッションは、ゼロ(仏教では空)の意識場の共鳴ワークであり、心の変容法、本当の自分を知る方法、無限の愛と自由、心の平和、本当の幸せ、真我覚醒、真我実現を促す方法です。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、フーマン、エックハルト・トール等の言及する「悟り」「覚醒」「真我」「本当の自分」の実現をサポート!

※多忙のため、セッションに関するお問い合わせの返信には、数日~1週間くらいかかることがあります。また、同様の理由により、申し訳ございませんが、読者の方からのセッション以外に関するご質問にはお答え致しかねます。ブログへのコメントにもお返しできないことが多いと思いますが、あわせてご了承願います。

★公開・週一合同ゼロ意識共鳴
※どなたでも意識参加自由。
毎週木曜日21時30分から30分間。 2011・11・10~

悟りを開くとは、本当の自分に開かれること


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

悟りを開くとは、一般的に、心の迷いが解けて、真理を会得すること、

開悟すること等言われています。

覚者方、すでにそれ(真理、真実、真我、実在、実相)に開かれている方々の

表現の中には、

誰もがもともとそうである(真我である)、

本質においては、誰もが例外なくすでにそうである、というものがあり、

それも確かなひとつの真実ですが、

「悟りを開く」という視点から見ていくと、

それ(真我)がそれ自身に気づき、それ自身に開かれること、

真我が直接にそれ自身を知ること、自己理解、自己認識、自覚、

あるいは、それは、すでにそうであるものの再認識という言い方も

できるかもしれません。

悟りを開くとは、それまで気づかれていなかった本当の自分、

真の自己、真我に気づくこと。

自分自身、真の自己に目覚めること、覚醒すること。

本当の自分に開かれること。

本当の自分を認識すること、自覚すること。

と言えます。

悟りが開かれていくプロセス等も様々


悟りを開く深さ、気づきの深さ、トータルさ等はそれぞれであり、

また、それがどれだけ、そして、どのようにマインドを含めた存在全体を

変容、成熟等させていくかも、それぞれのプロセスがあります。

人によっては、いわゆる悟りの一瞥、悟り体験が一度でも起これば、

悟りを開いたと言う方もいるかもしれません。

(一度の体験により、それまでのパターン等から自由になり、

存在全体が大きく変容し、まさにそれが会得される、それそのものとなる、

ということも考えられますが、多くの場合は、そこからさらなる真摯な実践等を

継続していくことにより、徐々に存在全体の変容が進んでいきます。)

また、冒頭に書かせて頂いたように、「会得された」という段階になってはじめて、

悟りを開いたとする方々もいるかもしれません。

現れの世界を通して、悟りを開く、悟りが開かれる


本質はもともとそうであり、すでにそうであっても、

それが自覚され、理解され、実感され、

それ自身の意識の中に開かれなければ、

ある意味、それは無きに等しい

と言うこともできます。

真我自体は、生死を超え、この現れの世界を超えている、

あるいは、それらを含み、そして超えていると言えますが、

それが実現され、生きられるのは、この現れの世界を通して

と言うことができます。

気づいていなかったものに気づかれる、

開かれていなかった真実、真我の認識、自覚、理解に開かれる、

それを

悟りを開く

悟りが開かれる

そのように言うことができると思います。

それ(真我)自身に悟りが開かれる


そしてまたそれは、その本質においては、個人に開かれるのではなく、

それ(真我)自身に開かれる、と言えます。

(悟りを開くとは、別の視点からは、個人、マインドを超えることとも言えますので。

もし、個人的な「私」が悟りを開いたと言っているようなケースがあれば、

それは、真には、悟りを開いたとは言えません。

もちろん、悟りを開くという言葉自体が、

真実を指し示すためのひとつの道具であり、

方便であるという言い方もできますし、

また、自然な必要性、全体の必要性、状況等から、

私は悟りを開いた、とあえて表現するケースもあると思われます。)

悟りを開く、そしてそれがより深まっていく


そして、それが起こるのは、突然です。

様々な実践を重ね、また、様々な人生の経験を重ね、

その存在に準備ができたときにそれはトータルに開かれてきます。

また、状況、環境等により、それが一時的に垣間見られる、

ある意味、事故的に体験される、その一片が部分的に開かれる

ということもあります。

そのような場合も含め、実践を重ねながらトータルに開かれてきた場合でも、

多くの場合は、悟後の修行という言葉があるように、

それまでの習慣、マインドのパターン等から徐々に自由になっていくプロセスがあります。

悟りを開く、そしてそれがより深まっていく、

本当の自分とは何ものであるのか、どのようなものであるのか、

自己理解の深まり等のプロセスがあります。

そしてそれは、仏教の方で言われる悟りの階梯(ステップ)、禅の十牛図等もあり、

ひとつの完成というものがあると捉えることもできますが、

また別の視点からは、真我(本当の自分)の自己理解の深まりは、

無限であるということができます。

(参考:ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より

『探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。』

『実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。』)

それ(真我)自身は不変不動でありながら、同時に、

それ自身への気づき、認識、実感、理解の進展は止まることはありません。

それは不変不動のまま、広がり、深まり、高まり続けていきます。

真我は、それ自身の中で流れ、循環し、それ自身を常に超えていきながら、

絶えることのない自己更新を、無限に、永遠に続けていきます。

悟りを開く方法


悟りを開く、悟りが開かれるのは、ある特定の決まった方法でなければならない

ということはありません。

何かのきっかけでそれが自然に開かれることもあります。

それは、ある状況、環境下で突然起こるかもしれません。

様々な修行や瞑想を行った結果、起こるかもしれません。

何の前触れもなく、普段の日常の中で突然起こるかもしれません。

人生の中でのある大きな経験を通して、悟りを開くかもしません。

セミナーやセッションの継続の結果、それが起こるかもしれません。

探そうとしていると見つけられない、

求めているうちは悟りを開くのは難しいなどとも言われますが、

探していない人、求めていない人すべてが悟りを開いているか、

本当の自分、真の自己、真我に気づいているか、

その自覚、理解のもとに生きられているか、というと必ずしもそうではありません。

また、探すのをやめた途端、求めるのをやめた途端、

すべての人がすぐに悟りを開くことができるか、

というとやはりそうとは限りません。

前述の言葉(「探そうとしていると見つけられない」、「求めているうちは

悟りを開くのは難しい」)は、

本質をついているとは言えますが、やはりその言葉をマインド的に、

一面的、表面的に捉えただけでは、望むものは開かれません。

また、もし本質をある程度理解できたとしても、

マインド等が成熟するにはやはり時間がかかります。

世の中では、「悟りを開く方法」、「悟りを開くには」等、様々なことが語られ、

また、示されたり、サットサンやセミナーやセッション等も行われています。

対象に気づく |悟りを開く方法


悟りを開くための実践として、意識の自然な習慣に基づいた

それ(真我)自身から起こっている対象、現れに気づく、

自身の行動や呼吸、思考、感情に気づく等は、

よく書かれていたり、言われているように思います。

これにより、それまで無意識的に同一化していた

身体、行動、思考、感情等から(感覚的に)離れることが可能になってきます。

(気づいている意識である真我、気づいている主体から

きれいに自我が落ちた状態では━多くの場合、ミックスされています。━、

あるいは、自我、個人が起こっているものに溶け、それとひとつとなった状態では、

それ自身に気づいている行動・行為そのもの、呼吸そのもの、思考そのもの、

感情そのものという在り方になる場合もあります。)

現れからより自由になっていくということで、

このことを「悟りを開く」、と言う方もいるかもしれません。

そのような視点もあるかもしれません。

それは非常に素晴らしい状態であり、在り方ですが、

それだけでは、まだ、気づいている意識自体の自覚、認識、理解が起こっていません。

(もちろん、自我、個人、マインド、現れからより自由になっていく過程で、

気づいている意識自体に気づく、本当の自分、真我に気づく、

悟りを開く、ということが起こる可能性はあります。)

意識(真我)のそれまでの習慣、傾向は、

それ自身から起こり、それ自身と距離のある対象に気づくというものであり、

意識、あるいは、気づきがそれ自身である気づきに気づくというこは、

習慣として身についていません。

(何かのきっかけ、状況等により、気づきがそれ自身である気づきに気づく

というこが自然に起こることはあります。)

ですから、まずは、それ自身ではないけれども、それ自身から起こる

身近な対象である思考や感情に気づくということを行い、

それに慣れていきながら、徐々に気づきそれ自身にもより気づくやすくなっていく

というアプローチがあります。

もちろん、それ以外にも、悟りを開くために上記の方法を提唱されていらしゃる方々には、

深い視点、深い洞察があるものと思われます。

瞑想|悟りを開く方法 


また、瞑想等で、心を静かにしたりすることにより、思考等動いている対象ではなく、

その思考等に気づいている意識自体に気づきやすくなることもあります。

何を知るのか、

何を悟るのか、

何に開かれるのか、

何に目覚めるのか、

何に覚醒するのか、

それは、自分自身にです。

すべてに気づいている意識である真我、真の自己、本当の自分に気づくこと、

それ自身を自覚すること、

それ自身を認識すること、

それ自身の実感、認識、理解に開かれること、

悟りを開くとは、そのようなものであると無空庵ではお伝えさせて頂いております。

本来、真実は言葉を超えており、悟り、悟りを開く、目覚める、覚醒する等の言葉も、

方便、便宜上のものでしかないとも言え、

また、様々な定義、使い方、解釈もあり、また、誤解の多い言葉でもあるとも言えますが、

無空庵では、ひとつの在り方を指し示すものとして、必要に応じて、

「悟りを開く」等の言葉を使わせて頂いております。

ゼロ意識共鳴セッション |悟りを開く方法


さて、様々に悟りを開くための方法、悟りを開くためのアプローチが

提供されている現在ですが、

無空庵では、それ(真我)を深く知る意識からの直接伝授の方法として、

ゼロ意識共鳴セッションを行わせて頂いております。

共に在ることによる共鳴での直接伝授等に関する記述として、

参考までに、覚者方の言葉等をいくつか挙げさせて頂きたいと思います。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」より

【まずサットサンとは、実際には、非顕現である真理(サット)あるいは絶対的存在との交際を意味している。
だが、それができるものは非常にまれなため、弟子は二番目に効果的な顕現された真理、つまりグルとの交際を選ばなければならない。
想念は執拗に起こり続けるため、賢者との交際はどうしても必要となる。
賢者はすでに心を克服し、平和の内に在る。
彼の臨在の内にあることは、この平和の状態を他者にもたらす助けになる。
さもなければ彼との交際を求める理由はない。
グルは誰に見られることもなく、このために必要とされる力を弟子に与える。】

【沈黙のディークシャーは最も完全なものである。】

【グル(師・教師)が沈黙していれば、弟子の心は自動的に浄化される。】

【グルの眼差しには浄化作用がある。
その浄化作用を目で見ることはできない。
石炭を発火させるには長い時間が必要であり、木炭であれば短い時間ですむ。
火薬であれば発火は瞬時に起こるだろう。
マハートマのもとを訪れる人の段階もそれと同じである。
智慧の炎はすべての活動を燃やし尽くす。
賢者の交際(サットサン)、あるいは彼らとの精神的接触によって、智慧は培われるのである。 】

ラマナ・マハルシ「不滅の意識」より

【賢者たちと親密に生活し、共鳴して接触している人々は、彼らから徐々にサマーディ(真我への吸収)の習慣を吸収します。】

「パワーか、フォースか」より

【エネルギーフィールドが550か、それ以上で測定される指導者がそばにいることで、まだ悟りを開くに達していない弟子たちが崇高さを体験することはよくあります。
これは、パワフルなアトラクターフィールドが優先することによって起きる「同調化」のプロセスを通して現れます。】

【精神の修行をする人たちは、師のエネルギーに自分を合わせることです。そして、レベルの高い師にただ焦点を合わせるだけで、自分の進歩を促すことができます。】

フーマン「恩寵の扉が開くまで」より

【プレゼンスやビーイングやハートの境地は、だんだんとマインドを変容させるし、教師の臨在もマインドを変容させる。】

【古い時代の究極の教えは、唯一沈黙を通してのみだった。
マスター臨在の下で、直接に真実が伝達される。 】

フーマン「恩寵の扉が開くまでⅡ」より

【私たちが一緒に坐ると、これがあなたの中で活性化する。
そうしてそれに対して開く事で、奥義が伝授される。 】

【伝統的な弟子とマスターの関係では、アシュラムがあり、弟子は長年マスターの下に止まった。
そうすることで、そのエネルギーの下で成長が起こった。
今、私がアシュラムを持つ必要はないが、私はあなたをガイドする。
そして「これ」をあなたの中で開き成長させていく。 】

このように、共鳴伝授というものは、悟りを開くためのひとつの方法として、

古来からサットサン等により行われてきたものですが、

無空庵では、それを1対1で、相手の方に合わせ、

もっとも凝縮した形で行わせて頂いております。

これまでの習慣、本当の自分を知らず、気づいている意識の自覚がない状態で、

マインドのパターンに無意識に巻き込まれ、

また、それと同一化していた習慣を変え、

真我の自覚、自己認識、自己理解に開かれ、

そしてそれがより定着し、より確かなものとなっていくよう、

言い換えれば、悟りを開くため、そして、その開かれた悟りをより確かなものにし、

より深めていくため、週1回の定期的な継続セッションという形で

行わせて頂いております。

そこでは、初めに、それを深く知る意識との共鳴場の中で、

「意識(真我)」、「在る(実在)」について、お話ししながら、

確認、お伝えしていきます。

はじめてのセッションでお分かりになる方もあれば、

徐々に分かってくる場合もありますが、それは大きな違いではありません。

日常での実践。自覚、再確認、再認識。自分自身、在る、気

づいている意識に気づくことを繰り返す。|悟りを開く方法


そして、日常では、起こっている思考、感情等の方ではなく、

それに気づいている意識自体に気づくこと、

あるいは、真我のもうひとつの側面、在るという存在感覚、

あるいは、シンプルにその事実に注意を向けること、

あるいは、それそのものとして在ること(真の自分自身であること)

を実践して頂いております。

それは、悟りを開く、そして、その開かれた悟り、開かれた理解を、

無限に深めていくための最も直接的で、最も自然で、最もシンプルで、

かつ最もトータルな方法であると言えます。

そしてそのことにより、より自由に、より軽やかに、より平和に、

より幸せになっていきます。

喜びが増し、愛に満ち、本当の自分が実現されていきます。

なぜなら、真我、本当の自分とは、自由そのもの、平和そのもの、幸せそのもの、

喜びそのもの、無限の愛だからです。

悟りを開く、そして、その開かれた悟りをより深めていく、

真我、本当の自分をより深く知っていくことにより、それらは無限に増していきます。


***********

最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

T.Sさんから頂いたセッションの感想 (2017年9月3日投稿)

いつものように、背中側の空間に強い存在感がありました。
"空間が気持ちいい"という感じが不思議です。

まるこさんから頂いたセッションの感想(2017年8月27日投稿)

共鳴では、随分内面が静かになった
感じが致しました。

ハートでは、とても暖かく

その後、瞬間に何もないところに
いたような感じがありました。


K.M(のびのび)さんから頂いたセッションの感想(2017年8月17日投稿)

日常では、根深いとらわれに気づきました。

今までも、そのパターンには気づいていましたが、そこに“とらわれている”ということを深く理解しました。

そのようなことにとらわれる必要はまったくなかった、ということが腑に落ちたようです。

真実ではなく、単なる癖である、と深く理解すれば、すぐに離れることができます。

o.kさんから頂いたセッションの感想(2017年8月13日投稿)

セッションでお話しを聞いてくださって
すっきりしました。
こうやって定期的にセッションを
受けさせて頂いている
おかげでそこまでダメージも
受けず、マインドが優位に
なりかけて本質から外れていきそうな時
また本質を思い出させて
くださってありがとうございます。

悟りとは


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

「悟り」とは、一般的には、物事の真の意味を知ること。理解すること。

気づくこと、感づくこと

また、仏語としては、迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。

等言われています。

「覚り」と書かれることもあります。

また、「開悟」や「覚悟」という表現もあります。

実際、「悟り」という言葉に関しては、様々な意味で使われ、また、様々に解釈されたり、

理解されているように思います。

ある意味、言葉は、真実を指し示すためのひとつの道具であり、

方便という側面もありますが、

無空庵では、「悟り」とは、本当の自分を知ること。

真の自己、真我を知ること

と捉えています。

それは、個人、そして、この現れの世界、現象世界のすべてを含み、

そして同時に超えている真の自己、本質、真我を知ること。

それ(真我)そのものとして、直接に、それ(真我)自身を実感、自覚、認識し、

腑に落ちて深く理解すること。

存在全体で知ること。

直知、直覚すること。

それ(真我)だけがあり、それ(真我)がすべてであるということを知ること。

悟りをいくつかの視点から


さらに、より具体的にいくつかの視点から挙げてみれば、

「悟り」とは、本当の自分、自らの本質、真我、真の自己は、無であり、空であり、

そこから、「私」という自我、思考、感情、そして、現象世界のすべて、

様々な次元、時空、森羅万象すべてが現れる無限の可能性そのものであること、

すべてが起こっていく真の源、

そして、そこに、現れたすべてが帰ってくる真のふるさとであることを知ること。

あるいは、「悟り」とは、それ自身はまったく変わらず、不動のまま、

何の意図、意志なきもの、特定の何ものでもないもの、非具象なるもの、

未知なるものとしてとどまりながら、

その中で、それ自身の自然本性からすべての具体的な事象、

現象が展開する深遠で玄妙なる絶対場、ゼロ場であること。

それ自身の中で、それら様々な事象、現象、世界、宇宙が起こりながらも、

それ自身の存在性という点において、あるいは、その本質、その真実においては、

本当は何も起こっていない、

と言える、絶対平和、絶対的な安らぎ、絶対安心、絶対安全の場であることを知ること。

また、「悟り」とは、本当の自分、真の自己、真我は、

それ(真我)自身から起こる、あるいは、それ(真我)自身の中で起こる

様々な具体的な現れ、具体的な動き、波、ゆらぎ、事象、現象に気づき、

また、それら様々な現象に気づいている自分自身に気づくことができる純粋な意識、

純粋な気づきであると知ること。

あるいは、「知」そのものであると知ること。

(それは、「悟り」そのものであるということもできます。)

また、「悟り」とは、本当の自分、真の自己、真我とは、

すべてを生み出し、すべてを支え、すべてを育み、すべてを包んでいる

無限の愛そのものであると知ること。

等言えます。

悟りとは、本当の自分を知ること


今、いくつかの視点から、より具体的に「悟り」ということについて挙げさせて頂きましたが、

本当の自分、真の自己、真我は、無限そのものでもあり、その在り方、質、側面は、

無限です。

さらに、「悟り」ということについて、具体的に挙げさせて頂ければ、

本当の自分、真の自己、真我とは、

すべての音が起こる前の絶対的な沈黙、静寂の領域そのもの、

(そこからすべての音が起こっていきます。)

相対を超えた絶対的な喜びそのもの、

変わることのない幸せそのもの、

多様な生命が起こっていき、様々に「生きる」ということが起こっていく生命の源、

生命そのもの、

相対を超えた真・善・美そのもの、

また、それ自身、そして、それ自身から現れたすべてを含む全体そのものでもあること。

それ自身がすべてのすべてであること。

存在する存在性そのものであること。

それらを知ること。

存在そのものとして、それを直知、直覚すること。

そのように、本当の自分、真の自己、真我を知ることを、

無空庵では「悟り」と言っています。

悟りの無限の深まり、広がり


本質、真我、本当の自分は、ただひとつのもの、ただひとつのすべてであり、

もっともシンプルなものでありながら、無限そのものでもあり、

無限の質、無限の側面があります。

そのひとつの質の中にもすべてがあり、それがすべてでもあります。

自分自身が、「空」であることを知ったら、それはひとつの「悟り」と言えるでしょう。

自分自身が、「純粋な意識」、「純粋な気づき」であると知ったら、

それをひとつの「悟り」と言ってもいいでしょう。

そして、それをひとつのゴールという言い方もできるかもしれませんが、

同時にそれがすべてではないと言うこともできます。

本当の自分は、無限です。

また、未知そのものでもあります。

知られる側面、角度、質は無限にあります。

(それでも、それらはけっして別々のものではなく、分けられるものではありません。

真我=純粋意識=知=無=空=無限の可能性=無限の愛=在る・存在性=

平和=幸せ=静寂=全体・・・・

それは、そのひとつひとつのある意味、側面にすべてが含まれていて、

それ自体ですべてでもあります。

そのため、ひとつを知ることにより、「すべてを知った」という感覚も起こり得ますし、

それは正しく自然な感覚でもあります。)

また、その「悟り」ひとつひとつに無限の深まり、広がりがあります。

ですから、無空庵では、より深く、そして、よりトータルに自分自身を知っていく

等の表現を使わせて頂くことが多くあります。

そのように、それ自身は、不変不動のものとしてただ在りながら、

その自然本性により、自分自身を無限に知っていくというのが、

真我、あるいは、知そのもの、また、愛そのものの自然な在り方です。

悟りを実現した覚者の言葉より


参考までに、ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」から、ご紹介させて頂きます。

『探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。』

『実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。』

悟りを生きる、悟りが生きられていく


それは、時空を超え、「悟り」そのものでも在りながら、それ自身の中で、

それ自身の自然本性を通して、無限に自分自身を知っていくもの、

無限に自分自身を悟っていくもの、「悟り」を深めていくもの。

より自分自身になっていくもの、より自分自身で在っていくもの。

愛がより愛を知っていきます。

愛がより愛になっていきます。

愛がより愛を実現していきます。

無限に愛を実現していきます。

「悟り」がそのように実現されていきます。

「悟り」が生きられていきます。

真実の理解が生きられていきます。

真実が生きられていきます。

生命そのものが生きられていきます。

本質、真の自己、真我、愛そのものは、そのように在ります。

悟りとは、愛そのものである本当の自分を知ること


また、「悟り」とは、本当の自分を知ること、

そして、その本当の自分には、無限の側面、質、あるいは、在り方があると

書かせて頂きましたが、

それらを総称し、本当の自分をもし一言で言い表すなら、それは、愛です。

(様々な表し方があると思いますが、無空庵では、ひとつの表現として、

そのように表現させて頂いております。)

愛を知ることが「悟り」です。

それは、存在のもっとも深奥にあるもの、核にあるもの、もっとも大切なもの、

また、それが唯一であり、それだけがある、それがすべてであると言えるものです。

それは、この現れの世界で言われ、感じられるものを含み、

そして、さらにそれを超えています。

思い、感情、さらには、感覚すら超えている、あるいは、含み超えている

と言ってもいいでしょう。

それは、すべてを含み、そして、すべてを超えているものです。

それは、実在そのもの。

そして、絶対的な事実。

すべてに先立ち在り、それ自身はまったく変わらないまますべてとして現れ、

すべてに浸透し、すべてを貫いているもの。

すべてを溶かし、すべてを統合できるもの。

すべてをひとつにできるもの。

そして同時に、すでにすべてをひとつにまとめているもの。

すでにひとつであるもの。

すでにそうであるもの。

それを知ることが「悟り」

真の愛を知ること

本当の自分は、愛そのものであることを知ることが「悟り」です。

悟りのプロセス、悟りの実現


仏教の方では、悟りの階梯(ステップ)として、「悟り」の世界を

「預流果」「一来果」「不還果」「阿羅漢果」の四つのステージに分けて解説されていたり、

四向四果(しこうしか)という八つのステップで説明しています

また、禅の「悟り」にいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表した十牛図

(じゅうぎゅうず)、あるいは、十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)というものもあります。

無空庵では、その「悟り」のプロセス、「悟り」の流れをシンプルに、

真我が自分自身を知っていくプロセス、

自分自身をより深く、よりトータルに悟り、理解し、実現していくプロセスと捉え、

存在の深まり、理解・悟りの浸透、貫き、

そして、それに伴うマインド等を含めた存在全体の変容、純化、成熟という形等で

表現させて頂いております。

真我、空、無限の愛から現れたこの時空の中で起こる一つの流れとして見る場合、

そこにはプロセスがあります。

悟りの一瞥、悟り体験と言われるものからはじまり,

(これは、必ずしも劇的だったり、神秘的なものであったりするものではありません。
それはただ単に、真の自分に気づく、真の自分を知るということですから。
━その気づきの深さ、トータルさ、腑に落ち度等はそれぞれです。━)

悟後の修行と言われるそのプロセスがあります。

(頓悟、漸悟という言葉があります。ひとつの気づき、理解、「悟り」が起こるのは
突然と言えますが、ほとんどの場合は、そこからそれぞれのプロセスを通り、
徐々にシフト、変容等が進んでいくと考えてよろしいと思います。)

無空庵では、真の自己、真我に気づくこと、

それがそれ自身に目覚めることを真我覚醒とも言い、

そして、その気づき、「悟り」、理解が重ねられ、深められ、

マインド等含めた存在全体に浸透し、

その理解、その「悟り」が自然に、日常的に生きられるようになることを

真我実現(悟りの実現)とも言っています。


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最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

T.Sさんから頂いたセッションの感想 (2017年9月3日投稿)

いつものように、背中側の空間に強い存在感がありました。
"空間が気持ちいい"という感じが不思議です。


まるこさんから頂いたセッションの感想(2017年8月27日投稿)

共鳴では、随分内面が静かになった
感じが致しました。

ハートでは、とても暖かく

その後、瞬間に何もないところに
いたような感じがありました。


K.M(のびのび)さんから頂いたセッションの感想(2017年8月17日投稿)

日常では、根深いとらわれに気づきました。

今までも、そのパターンには気づいていましたが、そこに“とらわれている”ということを深く理解しました。

そのようなことにとらわれる必要はまったくなかった、ということが腑に落ちたようです。

真実ではなく、単なる癖である、と深く理解すれば、すぐに離れることができます。

o.kさんから頂いたセッションの感想(2017年8月13日投稿)

セッションでお話しを聞いてくださって
すっきりしました。
こうやって定期的にセッションを
受けさせて頂いている
おかげでそこまでダメージも
受けず、マインドが優位に
なりかけて本質から外れていきそうな時
また本質を思い出させて
くださってありがとうございます。