■覚者の言葉

ここでは、「■覚者の言葉」 に関する記事を紹介しています。

ゼロ意識共鳴で、真我・無限の愛である本当の自分に目覚め、本当の自分を実現する!

※こちらのブログは、無空庵第一ブログ「悟り・覚醒・真我・意識の目覚め・無・空・本当の自分を知る方法 ゼロ意識共鳴で心の平和・愛と幸せを実現」(2010年1月~2015年11月)を継承したものです。
これまでのブログは相当量の記事が蓄積され、「目的の記事を探すのに時間がかかる」などのご指摘をいただいたこと等もあり、 読者の方の利便性も考慮し、今後の記事はこちらのブログ(無空庵第二ブログ)に掲載致します。
また、過去の記事で必要と思われるもの等はこちらのブログにも掲載、または移設いたしますので併せてご覧ください。
また、過去の記事のほとんどは、これまでのブログにて引き続きご覧いただけます。


真我はただ在る。ただ自分自身(愛)である。シンプルな生き方。シンプルな在り方。
無空庵で、真の自己、本当の自分を知る。「愛」(存在の愛)と「空」、そして「在る」こと(自分自身であること)の素晴らしさを知る。
悟り・覚醒・無限の愛と幸せ・真の平安を実現!

無空庵では、スカイプを利用し、、ゼロ意識共鳴個人セッションを行っています。
個人セッションは、ゼロ(仏教では空)の意識場の共鳴ワークであり、心の変容法、本当の自分を知る方法、無限の愛と自由、心の平和、本当の幸せ、真我覚醒、真我実現を促す方法です。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、フーマン、エックハルト・トール等の言及する「悟り」「覚醒」「真我」「本当の自分」の実現をサポート!

※多忙のため、セッションに関するお問い合わせの返信には、数日~1週間くらいかかることがあります。また、同様の理由により、申し訳ございませんが、読者の方からのセッション以外に関するご質問にはお答え致しかねます。ブログへのコメントにもお返しできないことが多いと思いますが、あわせてご了承願います。

★公開・週一合同ゼロ意識共鳴
※どなたでも意識参加自由。
毎週木曜日21時30分から30分間。 2011・11・10~

ここ数日、無空庵の参考本のところにあります覚者のご紹介をさせて頂いておりますが、覚醒の巨星とも言われるニサルガダッタ・マハラジの記事に関しましては、無空庵第一ブログの方にありますので、
ご興味のある方はご覧になって頂ければと思います。

第一ブログ案内1-2

(上記ご案内はリンクになっておりませんので、お手数をおかけいたしますが、URLを入力、あるいは、「無空庵」等で検索して頂きますようよろしくお願い致します。)

無空庵第一ブログ左サイドバーのカテゴリ■覚者・マスター・スピリチュアルリーダーの言葉のところ、または、第一ブログ左サイドバー下部の月別アーカイブ等から、2010年3月15日の記事をご覧ください。

エックハルト・トール氏のご紹介


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

エックハルト・トール氏は、その著書「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」、
「世界でいちばん古くて大切な教え」を参考本のところでご紹介させて頂いている現代の覚者です。

エックハルト・トール氏の書籍「世界でいちばん古くて大切な教え」(第1刷 2006年4月30日)から彼のプロフィールを紹介させて頂きます。

ドイツ生まれ。13歳までドイツで過ごす。ロンドン大学卒業後、ケンブリッジ大学研究員および指導教官となる。
29歳の時、その後の人生を180度転換させる劇的な霊的体験をする。
以後数年間は、この時の体験を理解し、深め、知識として融合するための研究に費やす。
現在は講演家として世界各地を巡り、人々にメッセージ=「苦しみから平和へいたる道」を伝えている。
処女作『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(原題:The Power of Now』は、世界30ヵ国以上で出版され、300百万部を超えるベストセラーに。
現代でもっとも重要なスピリチュアル書のひとつに数えられている。1996年よりヴァンクーバー(カナダ)在住。

エックハルト・トール氏の本は、とても読みやすく、これまで悟り、覚醒等に関する本を読んだことがなかった方にも、理解しやすいのではないかと思います。
本質(本当の自分、真我)、そして、エゴの性質、傾向等についても理解が進む本だと思います。

わたしも、本当の自分、真我の確認が起こる前には、スピリチュアル系の本をいろいろ読み、参考になるもの、鼓舞されるもの等ありましたが、エックハルト・トール氏の「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」を読ませて頂き、今を意識し、はじめて現れレベルでの変化を実感できたという覚えがあります。

スピリチュアル系の季刊誌で、エックハルト・トール氏の顔写真を拝見したことがありますが、とても透明感のある方だと感じました。

エックハルト・トール「さとりをひらくと人生はシンプルで

楽になる」等から


それでは、エックハルト・トール氏の本から、何か所か抜粋させて頂き、ご紹介させて頂きたいと思います。

「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」より

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エックハルト・トール
「過去は、究極的には現実ではない」と認識して、「いま、この瞬間」をあるがままに受け容れることが「許し」です。
これをおこなうと、心に奇跡的な変容が起こるだけでなく、外界にも変化が起こります。
強烈に「いまに在る」と、心に平和をもたらすだけでなく、外界にも平和が生まれるのです。
「いまに在る」意識がつくるエネルギーの場に入った人やものは、すべてその影響を受けずにはいられないからです。
変化が即座に、目に見えて起こることもあれば、より深いレベルで作用し、視覚的な変化は、時間がたってから現われることもあります。
強烈に「いま」に在り、その波動を維持するだけで、直接的にはなにも手をくださなくても、不調和を溶かし、痛みを癒し、無意識を追い払えるのです。

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問い
暴力や攻撃といったものに対する、「無抵抗主義」はどうなんですか?

答え(エックハルト・トール)
わたしの言う「無抵抗」は、必ずしも、「ないもしないこと」を意味するのではありません。
わたしの言う「無抵抗」は、どのような行動も、感情的リアクションにならないということです。
「相手の力に抵抗してはなりません。身をゆだねることで打ち勝つのだ」という、東洋の格闘技の奥義である、深遠な智慧を胸に刻んでおきましょう。

しかしながら、強烈に「いまに在る」時には、「なにもしないこと」自体が威力を発揮し、状況や人々を変化させたり、癒したりすることがあります。
道教には、「行動なき行動」もしくは「なにもせず静かに座る」と一般に訳される、「無為」[wuwei]という言葉があります。
古代中国では、「無為」はもっとも気高いおこない、美徳のひとつとみなされていました。
これは、不活発な状態とは違います。
恐れ、怠慢、優柔不断などの無意識状態とは、もちろん対極に位置します。
真の「なにもしないこと」は、「手放していること」、「無抵抗であること」、「意識がはっきりと目覚めていること」が要求されるのです。

「手放すこと」の境地に達していれば、行動をとるべき時には、思考に基づいてリアクションをすることはありません。
かわりに、「在る」意識に基づいて対応するのです。
「手放すこと」の境地にある人は、非暴力主義を含め、どのような観念にもしばられていません。
その人がどんな行動を出るか、誰も予想すらできないのです。

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問い

あなたが「選択すること」についておっしゃったことは、「許し」についても、当てはまるのではないですか?
「完全に『いま』に在り、執着を捨てなければ、人を許すことはできない」。そうじゃありませんか?

答え(エックハルト・トール)
「許し」は、過去二千年にわたって使われてきた言葉ですが、ほとんどの人は、この言葉について、とても限られた見解しか持っていません。
「ほんとうの自分」のアイデンティティを、過去から引き出しているうちは、他者はもちろん、自分自身も、ほんとうの意味で許していないのです。
わたしたちの、唯一のパワーの源である、「いま」につながってはじめて、真の許しできるのです。
「いま」につながれば、過去は無力になり、自分がこれまでしたこと、されたことは「ほんとうの自分」という輝かしい本質を傷つけるどころか、それをかすりもしなかったのだと、心の奥で気づきます。
すると、「許し」という概念そのものが、不必要になります。

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「世界でいちばん古くて大切な教え」より

エックハルト・トール
ほとんどの人は、「いま、この瞬間」を「いま起こっている出来事」と錯覚しています。
でも、このふたつは別のものです。
「いま、この瞬間」は、そこで起こる出来事よりも、ずっと奥深いのです。
「いま、この瞬間」は、出来事が起きている空間なのです。
ですから、「いま、この瞬間」を、その内容と混同してはなりません。
「いま、この瞬間」は、その中で起こるどんな出来事よりも、深遠なのです。

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エックハルト・トール
思考、感情、感覚、その他なんであれ、あなたが経験するものが、「わたしの人生」を構成しています。
この「わたしの人生」が、「わたし」という感覚のよりどころであり、さらにそれを「人生の意義」だと信じるなら、少なくともあなたにとっては、それが真実になります。

けれども、これは、致命的な誤りなのです。
なぜなら、わたしたちが核で感じる「わたしが在る」という感覚は、人生の出来事とは、まったく関係がないからです。

「わたしが在る」という感覚は、「いま、この瞬間」とひとつです。
それは、どんなことがあっても変わることがありません。
子供のときであろうと、老いたときであろうと、健やかなときであろうと、病めるときであろうと、成功の頂点にいようと、失敗のどん底にいようと、「わたしが在る」、あるいは、「いま、この瞬間」のスペースは、もっとも深い次元では、永遠に不変なのです。

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エックハルト・トール
「わたしは、『本当の自分』を知りたい」。あなたはそう思うかもしれません。
けれども、あなた自身が、「本当の自分」なのです。
あなた自身が、すでに「知」そのものなのです。
あなた自身がすべてを知る媒体である意識なのです。
意識は、それ自身を知ることができません。
意識が、「知」自身なのですから。

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エックハルト・トール
自分自身を、万象万物が発生する源である意識であると知ることによって、出来事に依存することをやめ、状況、環境の中に自己を見つけようとする習性から解放されます。
いいかえるなら、どんな出来事が起こるか、あるいは起こらないかは、どっちでもよくなります。
物事の重要性、深刻さは薄れはじめます。
代わりに「遊び心」が芽生えます。
世界は、宇宙が繰り広げるダンス━形態のダンス━であり、それ以上でもそれ以下でもない、そう悟るのです。

「本当の自分」を知るとき、そこには絶えることのない、生き生きとした平和の感覚があります。
それを喜びと呼んでもいいでしょう。
なぜならば、力強く、あふれんばかりの平和、それこそが、真の喜びだからです。
それは、自分自身を、生命が形態になる前のエッセンスであると知る喜びです。
それが「在ること」の喜び、「本当の自分で在ること」の喜びです。

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「ニュー・アース-意識が変わる 世界が変わる-」より

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エックハルト・トール
エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。
自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。
結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。
幻想は決してあなたを満足させてくれない。
ほんとうのあなたに気づくことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。
なぜ不安なのか? エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。
だから外見はどれほど自信満々に見えても、エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。

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エックハルト・トール
J・クリシュナムルティはインドの偉大な哲学者、霊的指導者で、五十年以上も世界各地を旅して講演し、言葉を通じて━言葉とは中身だが━言葉を超え、中身を超えたことを伝えようとした。
人生も後半にさしかかったあるとき、彼は「私の秘密を知りたいと思いますか?」と問いかけて、聴衆を驚かせた。
聞いていた全員がはっと耳をそばだてた。
聴衆の多くは二十年三十年と彼の言葉を聞いてきて、それでもなお彼の教えの本質を理解することができないでいた。
長い年月のあと、ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか。「これが私の秘密です」と彼は言った。
「私は何が起ころうと気にしない」。

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エックハルト・トール
大切なのは、目的や行動ではなくそのもとにある意識の状態だということです。


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最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。


K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。

O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。

H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。

フーマンのご紹介


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

フーマンは、「恩寵の扉が開くまで」という本を参考本のところでご紹介させて頂いておりますが、内容は、とても分かりやすく、かつ、深いです。
同じ真我(フーマンは、「真実の自己」、「これ」等表現していますが。)、本質について語っていても、その存在の意識、自己理解の深さにより、響き方、伝わってき方が違います。
その点、フーマンはとてもクリアで深く、また、トータルで、そして、とても愛に溢れた存在であるということが本を読んでいても伝わってきます。

「恩寵の扉が開くまで」にあるフーマンのプロフィールをご紹介いたします。
フーマンは、1964年、イラン生まれ。米国の大学を卒業し、エンジニアとしてボーイング社に勤務。
子どもの頃から聖なる次元への回帰願望が強く、27歳のある日、ごく自然な形で光明を得る。
最初はシアトルで魂を覚醒へと導く教師として教え、後にハワイ島へと移住。2005年、7月に他界する。

わたしは、無空庵として現在のゼロ意識共鳴セッションをスタートさせる前に、
整体院をしながら、理解があり、必要であると思われる方に個別の共鳴を行っていました。
それは、当時、覚醒に関するセミナーに定期的に参加していて、
そこで主に大人数に対しての共鳴という形で行われたいたものを、
自分なりに、個別の形で、言葉等も使い、導きながら行っていたのですが、
その当時出会った本が、フーマンの「恩寵の扉を開く」でした。
それを読み、今、自分が行っている共鳴ととても近いものを感じ
(わたしは、フーマンのようなサイキック的な能力はまったくありません。
あくまで「真我」、「これ」に気づく、覚醒することのサポートという点について「近いものを感じた」ということです。)、
自身のスタイルを確認できたという記憶があります。
また、フーマンのスタンス、在り方に関しても、共感できる部分が多かったということも覚えています。

フーマン「恩寵の扉を開く」から


では、そのフーマンの「恩寵の扉を開く」から、何か所か抜粋し、ご紹介させて頂きたいと思います。

「恩寵の扉が開くまで フーマンとの出逢い」より

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フーマン
すべて、本当の真実に目覚めたの存在のメッセージは、いつでも唯一「愛」だけだ。
「愛」は単なる感情的なものではない。
それは「知っている」というフィーリングであり、この宇宙において本当の真実は何か、
すべての宇宙の中で何が真実かを知っているもの、それが愛の源泉だ。
それは、「現象世界に顕れない真実」だ。
それが「愛・ワンネス・真実」であり、あなたはそこへ向かっている。

***********

フーマン
「あなたが」その深さやスペースを継続して体験するというのではない。
 従来の体験からすべてが切り離され、あなたの中に全く新しい存在(being)が開いてシフトするというものだ。
 そうだったろう?

━まさにそのとおりです。

フーマン
私は、そこへあなたを導こうとしている。
しかし今回はそれを「永続的」にしたい。
そこに到達するには、もっとあなたが開き、あなたの中ですべてがシフトして「逆転」しなければならない。
 それが起こるには、しばらくは「自分が宙ぶらりんな状態」に留まる必要がある。

 なぜならその深さを体験する「主体そのもの」がワークされなければならないからだ。
 その深さそのものは、体験者の周りに既に存在している。
 しかしそれを認識する主体がワークされて、開かれる必要があるという事だ。

 もしあなたが「数か月前と比べて自分というものをあまり認識しなくなった」と感じ始めたら、それが自分に変容が起こり始めたと知る時だ。

 マインドを超えるという事。
 マインドの領域に留まっていては、変容は起こらない。

***********

フーマン
ただ「あなた自身で在る」事、実はこれこそがスピリチュアルに得る事の出来る、最も高次のものだ。

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フーマン
本当のあなたは(それはノーマンドであるが)、例えば「純粋な気づき」に限定されるものではない。
「絶対の境地」であったり、「純粋な愛」であったり、様々な違った要素を持っている。

しかしそれらは同じものであり、同じエッセンスだ。
その事が解るだろうか?
その事について、決して混乱してはならない。

今後どんなシフトや違ったレベルの体験を通り抜けていこうとも、それは同じエッセンスの変化だ。
つまりキヨタカでないもの、個としての自己ではない「より広がった自己」の変化である事を知りなさい。

これが自己理解(Self-Realization)の始まりだ。
自己理解とは、真実の私つまりキヨタカではない自己を理解する事であり、それには違った姿がある。
 時には「強烈な愛」として、時には「存在の神秘」として、時には「源泉での深い寛ぎ」として、そして時には「理由のない幸せ」として体験する。

しかしそれらは同じだ。
つまり同じものが違った顔つきをしているという事だ。
この事が分るかな?

━ええ、なんとか・・・。

フーマン
この事は非常に重要だ。
このシフトが起こって初めて、「スピリチュアルな道」が本当に始まる。
それまでは、あなたはただマインドの中にいる。

私の言ってる意味が分るかな?

それが起こるまでは、あなたは探求している。
このシフトが起こった後は、その「反対側」へもっとアクセス出来る様になる。
それこそが「自由」だ。
キヨタカからの「自由」だ。

***********

フーマン
「これ」が、真実の自己のエネルギーが、仏陀の本性が、あなたのパターンを洗い流す。
「これ」は、あなたを存在の自然な状態へと引き戻す。
それはただ「自分自身で在る」という事だ。

***********

━つまり本当の私(Real Me)は境地を超えているのですね?

フーマン 
イエス。
たった今あなたが体験している「これ」は「境地」だろうか?
よく見て欲しい。
いや、それは境地なんかではない。
それは「本当のあなた」だ。
それが、解るだろうか?

「自己理解」あるいは「悟り」とは、境地ではない。
それは境地を超えている。
あなたは夢から抜け出す。
境地はまだマインドに属している。
吸収のレベルは瞑想に属している。

***********

フーマン
深く瞑想していない人々や、マインドの強い人々は、ステートオブプレゼンスのワークや「絶対の境地」へ入るワークをして、
瞑想の境地を体験する必要がある。
しかし、それではマーヤからの目覚めは起きない。
マインドからの繋がりを絶つ事はできない。
あなたのマインドは、ただ一時停止状態になってまだそこにあり、戻るチャンスを伺っている。

それはサマーディ(三昧)に入っている人々を見るとよく解る。
どんなに深いサマーディに入っても、そこから出たとたん、マインドがただちに戻ってくる。

(フーマンは実際にインドに長期滞在して、サマーディに入った聖者に何人も会ったそうだ。)

だから、あまり長いリトリートはする必要がない。
例えば10日とか21日間のリトリートをすると、マインドが脇に追いやられて一時停止状態になるので、素晴らしい体験をするだろう。
全てがクリヤーで、無心の境地を体験する。
しかしそれは、マインドの集中と一時停止による効果に過ぎない。

それは、「真実の自己」の目覚めではない。
そこには「自己に対する理解」がない。

***********

フーマン
解放への究極の道は、「自己理解」にある。
ノーマインドに到達して、本当にマインドが落ちる事でそれが起こる。
それは、長時間坐ることで起こるのではない。
また、瞑想でなんらかの境地に到達する事で起こるのでもない。

そうではなくて、成熟する事で起こる。
成熟すると、あなたは恩寵を受け取る。
その時にのみ、それが起こる。
それが起こるまでは、準備をして成熟する事が必要だ。


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最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。


K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。

O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。

H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。

ラマナ・マハルシ|20世紀最大の覚者


(こちらの記事は、無空庵第一ブログから移設したものです。)

ラマナ・マハルシは、参考本のところで、「あるがままに ラマナ・マハルシの沈黙の教え」と「不滅の意識 ラマナ・マハルシとの会話」をご紹介させて頂いておりますが、ユング、ガンディーが敬慕した20世紀最大の覚者、沈黙の聖者と言われている存在です。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨しました。

知っているところ(真我・知そのもの)から、直接的に真我に意識を向けさせるその教え(または、沈黙の力)、在り方は、非常に深く、パワフルで、かつシンプルです。

ラマナ・マハルシのシンプルな在り方そのものが真我の在り方そのものであり、彼は、その存在で、真我実現とはどのようなものかを伝えしているとも言えます。

彼の弟子には、"尊敬するお父さん"という意味の「パパジ」の名で呼ばれているプンジャジがおり、また、プンジャジのサンガからは、ムージ、ガンガジ等の覚者が出ています。

「あるがままに ラマナ・マハルシの沈黙の教え」から


参考本とさせて頂いている「あるがままに ラマナ・マハルシの沈黙の教え」から、真我の本性である愛について語られているところ等一部分を抜粋し、ご紹介させて頂きます。

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質問者 
スワミ、神を愛することは善いことではないでしょうか?
それならなぜ愛の道(バクティ・マールガ)にしたがわないのでしょうか。

ラマナ・マハルシ
それにしたがえないと誰が言ったのかね?
そうするがいい。
だが、あなたが愛について語るとき、そこには二元性がある。
愛する者と、神と呼ばれる実体である愛される者がいる。
そうではないだろうか?
個人は神から分離していない。
それゆえ、愛とは、自分の真我に対する愛を意味しているのである。

質問者
だからこそ私は、神が愛の道を通して崇拝されていいのかどうかと尋ねているのです。

ラマナ・マハルシ
それこそが私が言ってきたことである。
愛そのものが神の本当の姿である。
「私はこれを愛さない」「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。
それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。それは純粋な至福である。
純粋な至福、神、アートマ、好きなように呼ぶがいい。
それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。
 あなたがこのようにすべてを拒絶すると、真我だけが残る。それが真実の愛である。
その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛で満ちていることを知るだろう。
 真我の本性である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。
愛の高みに達した人にのみ、解脱は成就される。それがすべての宗教の本質である。
真我の体験とは愛である。
それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。それが至福である。

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質問者
「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とはシュリー・シャンカラーチャーリアの」常套句です。
しかし、別の人たちは、「世界は実在である」と言います。
どちらが真実なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
どちらの言葉も真実である。
それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。
真理の探究者(アビャーシ)は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。
それから彼は世界を非実在として捨て去る。
なぜなら世界は変化するものだからである。
このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探求者は究極的に真我にたどり着く。
その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。
実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。

質問者
バガヴァーンはマーヤー(幻想)と実在が同じものだと言われます。
どうしてそれが可能なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
シャンカラーチャーリアは彼のマーヤーの見解について、人々から理解されないまま批判された。
彼はこのように言った。
(1)ブラフマンは実在である。
(2)宇宙は非実在である、そして
(3)宇宙はブラフマンである。
彼は第二番目のところで止まらなかった。
なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。
それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。
したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。

質問者
そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わなければならないだろう。
他に道はない。
ある人が、自分は実在であり、永遠に、全てに遍在するブラフマンだということを忘れ、
はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思いこんで、その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、
あなたは彼に世界は実在でしかなく、それは迷妄なのだということを気づかせなければならない。
なぜか?
なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。
あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼きつけないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。
ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。
そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。
真我を離れて宇宙は存在しないからである。
人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものとして見ているかぎり、
あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。
それはどうすることもできないのだ。
紙を見てみなさい。
われわれは文字だけを見ている。
文字が書かれている紙に気づくものはいない。
文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。
あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わねばならない。
賢者は紙と文字をひとつと見なす。
それゆえ、ブラフマンと宇宙もひとつとして見るのである。

質問者
それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、個々に分離した名前と形として見られたとき世界は非実在なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
炎が煙で隠されてしまうように、意識の輝く光は世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。
慈悲深い神の恩寵によって心が清らかになったとき、世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。
 心がマーヤーの邪悪な力から解放され、世界の知識を捨て去って無執着となり、
自ら輝く至高の実在の知識に到達した人だけが「世界は実在である」という言葉の本当の意味を正しく知ることができるのだ。
もし真理の知識の本質に沿って世界観が変容すれば、エーテル(アーカーシャ)から始まる五つの元素でできた世界は至高の真理の実在として見られるだろう。
多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の原初の状態は至福であり、多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単一である。
真我の内に在ることで、この真理をしりなさい。

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質問者
神と真我は同じものでしょうか?

ラマナ・マハルシ
誰もが真我を知っている。だが、明確には知られていない。
あなたはつねに存在している。その「在ること」が真我である。「私は在る」(I AM)が神の名前である。
神を定義した言葉のなかで、『旧約聖書』の出エジプト記第三章一四節にある「私は私であるものである」
(I AM THAT I AM)ほど、ふさわしい言葉はない。
他にも「ブラフマイヴァーハム(ブラフマンは私である)、「アハム・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、
ソーハム(私は彼であ)という言葉がある。
だが、「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど、直接的に表現したものはないだろう。
絶対的存在とは、ただ在るものである。
それが真我である。それが神である。真我を知れば神を知る。実際、神は真我以外の何ものでもない。


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最近のセッション例(記事投稿したものから一部抜粋させて頂いております。)

feelさんから頂いたセッションの感想(2017年4月23日投稿)

在るという立ち位置が長くなるにつれ、現れの世界も落ち着いてまいりました。

とにかく楽になってきました。ありがとうございました。


K.Mさんから頂いたセッションの感想(2017年4月13日投稿)

日常では、ある体験を通して、個人の視点は一面的である、ということをより深く実感し、
全体であることが大切である、ということを改めて強く感じました。

O.Kさんから頂いたセッションの感想(2017年4月7日投稿)

今週は在るから、身体、思考、感情が
起こっているんだという
気づきが起きた瞬間がありました。


H.KIさんから頂いたセッションの感想(2017年4月3日投稿)

ほんと、この頃は、予定のない解放感というのか、心地いいという感じです
”退屈だ”という思考が起こらなくなっているんだと思いました。